心の世界について、思うことを書いていきます。 (実際には日常的なことばかり書いてます)
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今日、正座したままうつぶせに丸まり、猫姿勢でなんとなくいじ〜っとしていたら、ふと、「もしかして寒いのだ」と気づきました。
天気予報みていなくて、気温が低いのにいつもと同じ格好で、しかもついさっきバイクで雨に濡れたのを忘れていたのでした。 子供が眠いとき眠いとわからず泣いて、泣きつかれて寝て、起きると機嫌直るのとおなじ原理ですね。 大人でも、肉体からくる気分の理由を別のところに求めてしまうことは意外にあるものかも。 そういえば前にアサーション(自己主張)トレーニングの講座で「体がどういう状態のときに自分がキレやすいか把握しておくとよい」と教わったことがありました。誰かと一緒にいる場合「あなたのここが悪い」とつっかかるより、「腹ペコだとついあたってしまうけれどあなたが悪いわけじゃないの。いま腹ペコだから先に謝っとく。ごめんね」と言う方が理解されやすいとのこと。言われた方はあせるだろうけどその方がこじれないらしいです。 未だ悟らぬ、肉もてる身のサガでございますね。 そうとわかっていても体を楽にできない場合もあるから「火もまた涼し」的精神修養が必須なときもあります。 けれど、面倒くさがりで体が弱っているのに気づかない私のような方は、とりあえず「寒くないか」「おなかすいてないか」「眠くないか」というチェックリストを思い浮かべてみることは役立つかもしれません。 物理的な対処は単純で即効性があります。 なんか着て食べてくださいね。 |
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昨日、両親が遊びに来ました。この夏、両親が家の大工仕事を手伝いにきてくれたお礼をしたかったけれど忙しくてなかなか会えなくて、昨日やっとご飯&カラオケに行きました。父のリクエストにこたえて「花」を3回も「千の風になって」を2回も、歌いました。「千の風になって」を聴きながら父は涙ぐんでいました。私は父の涙をはじめて見ました。葛藤があった親子が生きているうちにこのような和解体験ができるのは稀なことだし恩寵ですね。これらの曲は(歌うのは苦手だけど)父からの贈り物として好きな曲になりました。
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(「字の色が薄くて読みにくい」というご意見をいただいて私も直したいのですが、ブログ全体の文字の色を変える方法がわからないので、しばらくのあいだ記事ごとにあれこれ違う色をためしてみます)
人の中に見えるものは自分の中に同じ要素があるといいますね。 人をどう思いどう扱うかは、自分をどう思いどう扱うかとイコールだといいます。 私も、人の中にみえるものは自分のサブパーソナリティーだと思います。 相手の人を形容詞であらわしてみると、どういうサブパーソナリティーかわかります。 「怒りっぽい人」 「柔和な人」 「強気な人」 「弱気な人」 「率直な人」 「遠慮気味な人」 「貪欲な人」 「奉仕の人」 「陽気な人」 「ネガティブ思考の人」 「運がいい人わるい人」 などなど・・・相手の中に見る資質です。 相手の中に見る資質が自分の中にあるとは思えないときもあります。 サブパーソナリティーは「自分のなかのそういう部分」ですが、「今そう」でなくても「そうなる可能性」「そうなったときの自分」までひろげて考えるとわかりやすいです。 うんと過去とか将来まで考えれば、潜在的な可能性として、誰でも、どのようになる可能性もありますね。 他者をどう思い・どう扱うかにあらわれるのは「自分の潜在的な可能性」にたいして『自分』はどう思い、どう扱っているか、ということです。 『自分(本体)』と「自分(の部分)」との関係性。 「怒りっぽい人」を嫌っているなら、「実は自分の中にも怒りがある」ということ(もあるけどそれだけ)ではなく、相手を嫌う度合いと同じくらいの強度で「怒る自分」を嫌い、抑えているのかもしれない、と考えてみます。 そのため、現実的にはまったく怒らない人、怒らなさすぎる人になっている可能性、大です。 だから「自分にも同じ欠点があるのか」と自他ともに責めるのではなく、「まずは自分から直すべき」といたらない自分に鞭打つわけでもなく、『自分(本体)』と「そういう自分の部分」の関係性が今のところあんまりよくないだけ、と考えてみることもできます。 『自分』が「そういう自分」を許してなくて、「自分の部分」が『自分本体』に受け入れられず孤立し、そのためにかえって変化しにくくなっているのかもしれません。 「私はこんなに自分の怒りにたいして不寛容だったんだな。あの人は確かに怒りっぽすぎだけれど、私があの人を嫌うぐらいの強烈さで自分の怒りを押さえ込んでいるとしたら、それは抑えすぎかもしれないな。私の場合はもっと怒る自分を許してもいいのかもしれない」と思ったほうがはるかに楽になるかもしれないし、そうしてみたら前ほど怒りっぽい人が気にならなくなるかもしれません。 おなじことですが、たとえば嫉妬の強さは、自分が実力以上に恵まれひきたてられる可能性をどれほど抑えているかの目安になるでしょう。 自分がどのような言葉で相手を批判するか、自分の思考に耳をすませば、『自分』が「自分の運の良さ」を許さない理由・言い分がわかりやすくなるかもしれません。 相手を好きになって素直に応援できるようになるのと、自分が幸運に恵まれる時期は不思議なことに一致していくのかもしれません。 そのように他者にたいして自分が抱く感情・思考・態度が、『自分』と「自分のある部分(サブパーソナリティー)」との関係性をあらわしているのという想定でみてみれば、『自分』が「自分」を愛なく扱っていたことに気づきやすくなります。そして自分同士がより愛と調和に満ちた生かしあう関係になる選択をしやすくなるのではないかな、と思います。 |
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前になにかの本で読んだのですけれど、先進国がアフリカへの援助として地下水をくみ上げる巨大ポンプをこぞって建設した時期があるそうです。
でも先進国の人たちが去ったあと、アフリカには交換部品の製造技術がなく、施設は使えなくなり、援助の残骸があちこちに残ってしまったそうです。 先進国が最新技術を駆使して一番よいと思うことをしても、現地の人に使いづらいものは使えないのですね。 かえって井戸を掘った方が役にたったのかもしれません。 外から改革・援助をするとき、相手をよくみていないと、相手の文脈を無視してしまったり、がんばったわりに喜ばれなかったりしますね。 私は今まで、家族にたいしてちょっとそういうところがありました。 でも10年働きかけてもビクともしなかった課題について、あるとき神様にお任せして手放すよう先生からアドバイスされました。 「このことについて私ができることはすべてやりました。あなたに任せます。彼らが幸せでありますように」とお祈りして、ただ見守ることにしました。 私があれこれ心配するのは、家族によい結果を望むからですが、それは自由意志をじゅうぶん尊重しないことにもつながります。 あけわたすとは、私にとって、相手の自由意志を尊重し、それによっておきる結果を見守る覚悟をすることでした。 ジョンレノンの「LOVE」という曲に「愛は自由」という歌詞がありますね。 私は「今自分が真に自由でもここにとどまり今していることを続けたいだろうか」と自分自身に問うときにその曲を思い出します。 でも「愛は、受け手にとっても自由を許すこと」でもありました。 私があげたい愛を相手が受け取りたくないなら、それを尊重することも大切ですね。 私はそのことを学び、ただ祈ることにしました。 すると状況はたったの一年で変わりました。 私の思いが邪魔をしていたのかもしれないと思うほどでした。 (強く願ったあと手放すのが実現化の法則と聞いたこともありますけれど) 家族自身が自由にきめて、起きてくる問題に対処していくなかで気持ちが変わり、家族自身が変化を望むようになり、情報提供などの援助を求められるようになりました。 人が動こうとする気持ちをなくしてしまうほどには外から働きかけないことが大切なのだと私も学んだので、それからは自助グループに関わるような間接的な援助にとどめるよう心がけています。 家族から「解決の第一歩を踏み出した祝賀会としてお寿司食べたの」と報告を受けきつねにつままれたような気分です。 「援助ってなんだろう」とあらためて考えさせられます。 ふと思うのは、人とその世界は、雛鳥と卵のように共に大事なもので、雛鳥が中から殻をつついてでてくることが大切なのかもしれません。 親鳥はあたため、殻を破れない程度につつくと聞きます。 つつくのは呼びかけの意味と、殻を破れやすくする働きがあるのでしょう。 人間の赤ん坊も、赤ん坊のペースにお母さんがあわせてお外にでますね。 殻のなかにいる間はあたためて、優しく呼びかけて、信じること、祈ること、そっと光を送ること、プロセスのもつ力を信頼すること、これからはいっそうそういう援助を心がけていきたいな、と思いました。 |
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昨日は仕事の合間に、池袋コミュニティ・カレッジにでかけました。
知人が朗読の会に参加していて、ヘルマン・ヘッセの『クヌルプ』の最後のくだりを朗読するからと誘われました。 私も『クヌルプ』は高校時代に読み、「この人生、クヌルプのようにちょっと人に笑ってもらえばいいか」と思った覚えがあります。それは長いこと潜在意識にある思いでしたから、『クヌルプ』を通して自分の中に刻んだ意味を捉えなおすためにもう一度触れたいという思いがありました。 発表会は、生徒が選んできたものに先生がBGMをつけ、一人20分ぐらい朗読をするという形式です。朗読の会はひっそりとした会で、参加者全員の発表を聴きました。 今回はたまたま死に関するテーマが多く、『生と死のはざまで』という題がついていました。シューベルトの遺産、ハイドンの生き方、サヴァの人生の変遷、クヌルプが死の直前に神さまと対話する場面、幽霊になった叔父さんと交流する話など。 朗読を聴いていると、統一感のある世界にひきこまれ、頭の中の雑音のような考えがやみ、瞑想状態になりました。静けさに満たされ、心の深いところまでくつろぎ、癒されました。私は聴覚タイプだし、テーマが好きだったのかもしれません。語られている人物と語り手の清らかな心の琴線に触れてほんとに心地よかったです。朗読はすばらしい空気をつくるんだな、と思いました。 朗読にご興味のある方はこちらをご覧ください。 |




