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今朝の夢は、知り合いが出てきてガッツポーズをしながら

「勝つとは、克つことだ」

と言ってました。

外に向かう勝利ではなく己に勝てということのようです。

朝起きて、ダスカロスの勉強会で「自由」について習ったのを思い出しました。

自由というのは権威者に従わないことではなくて、自分が選んだ目的に対して、自分の言動をコントロールできること。自分の中の衝動とか欲求とか、自分を突き動かすエネルギーに対して自己コントロールをきかせられることです。


克つことも自由も、その相手は人じゃなくて自分だよ、と私の無意識はリマインドのための夢を見せてくれたのだと思います。




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障害認定と介護認定

実家の父は今回のペースメーカー装着によって、身体障害者1級の手帳をもらえることになりました。


今はペースメーカーを入れる人が多いので、厚生労働省からあんまり1級にしないよう指導が入っていると担当医から聞きましたが、父は中でも重篤だったため、医師の意見書に一級相当と書かれていて、その通り認定されました。


父は家事が苦手なので、これを機に介護認定も取ることにしました。


病気や障害(ある程度長く続く病気による生活のしづらさ)の有無と、介護認定は別物です。


介護認定では、高齢者に対して、支援や介護が必要かどうかを判断します。支援は、基本自立生活が営める人に対して、自立生活を維持できるよう手伝うことで、介護は、自立生活が難しい人に対して必要な手助けをすることです。支援は1から2、介護は1から5と等級が分かれています。支援より介護の方が重く、等級の数が多いほど重い、とされています。


父の場合は、要介護2と認定されました。父の状態にしては最も重く認定されたと思います。在宅サービスの場合月々21万円まで利用できます。本人負担額は、所得に応じて最大2割負担です。


認定結果通知書とともに、事業所リストが送付されてきて、その中から自分で選んで、ケアプランを作ってくれるケアマネージャーを選任する必要がありますが、沢山事業所があってわからなかったので、最初に相談していた地域包括支援センターに問い合わせたところ、実家の状況に適した事業所を判断してもらって決めることができました。


私の実家のある自治体では、身体でも精神でも1級の場合は、手帳を持っている限り一生、すべての診療科の自己負担額が無料になります。通称マルショウ(障害の障を⚪️で囲んだ印)といい、重度障害者(1級の手帳を持つ人)は歯医者でも目医者でもタダになります。







ゴミ屋敷掃除

先日、実家の父が倒れて急遽搬送され、ペースメーカー装着手術を受けました。


病院からの電話で、父が治療拒否をしているけれど一刻を争うので今治療の許可をくださいと言われました。


しかし、心臓の問題ということは「生き様、死に様」といった個人の哲学に関わるため「治療を受けた場合のメリットデメリットを伝えたうえで父自身の了承を得て、サインをとって治療してください、私が行くまでに父が治療を受け入れなかったら死に目に会えなくても文句言いません」と伝え、病院に向かいました。


担当医からの1時間の説得の末、父はペースメーカー装着手術を受け入れたようで、私が到着したときには、簡易版ペースメーカーをつけていました。


その後、本格的なペースメーカー装着手術を受けました。ペースメーカー装着手術は私が想像していたより簡単で安全な手術で、術後一週間で退院となりました。


父の暮らす実家の家は、父自身の趣味である古本収集と、男やもめで整理や掃除ができないため、寝る場所も歩く場所もがない状態になっていました。


病み上がりで戻ってくるには不適切な状態でしたので、なんでも屋さん2人と友だちの協力を得て、総勢5人で部屋の片付けをしました。


父にとって大切な本は捨てず、その他のゴミだけを捨てましたが、それでも150~200袋ぐらい出ました。


「業者に廃棄処分を頼むと80~100万円かかる」となんでも屋さんが言います。ゴミの廃棄料なのに高額です。


こういうときは役所の環境事業所に相談するとよいのです。自治体ごとに(持ち込み可とか、収集車を出すとか)若干やり方に差があるようですが、基本、無料で引き取ってくれます。実家の場合は、様子を見に来てもらって、予約日に収集車が来てくれました。志を渡そうとしましたが断られ、完全無料でした。

粗大ゴミは事業所に持ち込み可能で、8千円分くらい引き取ってもらいました。


だいぶスッキリして寝床を確保できました。父も「細かいことをいえばあれこれなくなって不服はあるけれど、マクロな意味ではよくやってくれたと思っている。世話になったね」と言っていました。


メンタル起因の身体症状

ときおり、ストレス性の身体症状に悩まされる人の相談を受けることがあります。


喉の違和感、胸の重苦しさ、動悸など。


それらは、あるきっかけで初めて経験した体感覚が記憶され、以降敷居が低くなって、場所や相手かまわずむやみやたらと再現されるようになってしまったというだけで、学習の結果です。


症状のせいで出社や外出に支障をきたす場合もあります。


そんな自分が普通の人より劣っているように思えて自分を責め、越えなければと焦り、余計に自分を追い詰める人がいます。


そんなとき思い出していただきたいのはマクロな視点


まず、体感覚を学習するということ自体は不健康なことではないこと。自転車に乗るバランスを体が覚えるのと同じです。


また、アウストラロピテクス以来、人類史上、現代日本のような状況は近年のことにすぎず、現代社会に適応できるのが普通というわけではないこと。


しばらく前の日本人は、識字率も低く、畑を耕し、山やお天道様に手を合わせて暮らしていました。


現代社会は、心身の健康を保つことが政治の議題にあがり、ストレスチェックが法制化されるくらい生きづらくなっていることが社会的に認められているような社会です。


また現代日本でも、自給自足の暮らしをしている人もいれば、作家や投資家などで隠遁生活に近い生活をしている人もいて、家族が高収入のため働かない人もいますし、皆が同じ条件でやれているというわけではありません。モンゴルでは鷹狩りで暮らしている人もいます。


会社は前年度より利益を更新していくことを求められるものですし、労働者に支払う賃金は経費と考えて経費を抑え利益率を上げていくので、働いている人がきつくなるのは当たり前です。


適応できるのが普通、なのではなくて特殊対策が必要です。

セレブでもなければ受けられないサービスばかりが沢山あり、自然食品も高く、心身を健康に保つのは簡単なことではありません。家では裸族で過ごしたり、お金のかからない健康法をネット検索したり、今の自分がやりくりできる範囲でストレスケアが必要です。

置かれている状況を再評価したうえで、今はなんとかしてここを乗り切るしかないという結論に至るなら覚悟もできます。自分で選択すればだいぶ気分が違ってきます。

決めたらあとは方法論の問題です。

仕事は、ライフワークでなければ、生きるために必要なお金を稼ぐ手段ですから、心身の健康を害するなら手段として不適切、本末転倒です。


一度覚えた体の感覚は、新たな学習によって更新されます。小さくてもうまくやれたという成功体験をすることがより良い更新になります。


戦争トラウマの予後が一番良いのは、自宅に戻った人たちではありません。戦争の後方部隊あたりで治療した人たちです。つまり自分がバーンアウトした状況とちょっとだけ似たような部分を持っているけど、よりマイルドになっているような環境が、新たな学習に適しています。新たな学習(うまくやれたという成功体験)がしやすい環境を選ぶことがひとつのポイントです。

その辺りのことを専門家が言ってくれればよいのですが、共通認識ではないみたいなので、自分で選んでいきましょう。

人生がグル(導師)だから

人生がグル(導師)だから、私たちが「こここそ神聖な場所」「この人こそ神聖な人」と思った場所や人との関係で、私たち自身にとって神聖な学びが起きやすくなります。

つまり、私たちが今までのレベルからさらに一段あがらなければ解決できないようなひどい問題が起きる可能性が高くなります。

今までの自分のパターンを繰り返すなら被害者意識を深めるような、自分の許容範囲を超える問題が起きやすくなります。

私たちがその場所や人を心底大切に思ったからです。

そしてこの問題によって私たちが気づくかもしれないことがとても大事で神聖な気づきだからです。

私たちがやがてなるであろう究極的な神聖な自分自身と、現在の自分との差を縮めるような出来事が起きます。

今までの反応のパターンとは異なる認識や対応が、問題解決あるいは問題の緩和という点でも、正しい方向性となる可能性があります。

人生がグル(導師)だから

人生がグル(導師)だからこそ、大事なのは経験から学ぶ姿勢を保つことで、そのために必要なあり方があります。それは


自分が感じていることに嘘をつかない

自分の頭で考える

言ってることとやってることを一致させる

自分が大事だと思うものをちゃんと大事にし続け、そのために有効だと思ってした行動が本当に有効だったのかを検証し、有効でなければ、自分のやり方•考え方のどこを変えるべきなのかを考えてちゃんと結論を出すこと。

言うこと•やることを変えるなら、過去の自分の考え方や生き方との整合性を考え、なぜ今までそうしなかったのか、なぜ変えるのか、なにがわかったのか、理由を明確にする

その理由は、人に言えば通りそうな言い訳ではなく、宇宙や自分に誓えるような、嘘やごまかしのない理由にする

誰かの言うことを聞く場合でも「人がこう言ったから」「みんながどうだから」というような責任逃れをせず、従うなら従うなりに自分の選択として、自分が許容した範囲において従い、なんとなくの流れで自分が決めた範囲を超えない

生き方を変えないなら、なぜ変えないのかという理由を明確にする。単に習慣という理由で、頑迷でやみくもなロボットみたいな生き方をしない。

自分なりに筋を通した、自分に対して恥ずかしくない生き方をする

自分の中でわいた疑問に答えを出すまで考える

自分をも修正の対象とするような大事な価値観を持つ


そういった態度があれば、スピリチュアルな知識を知らなくても、特段頭がよくなくても、成功や挫折や出会いや別れといった体験を通じて、人生というグルは、何を変えるべきかを私たちに教えることができます。

いっぽう、たとえスピリチュアルな知識があっても、ただなんとなくの流れで生きていたり、忙しさにかまけて気になっていることをおざなりにしたり、体裁ばかり気にして、あるいはどうせ無理だと諦めて自分の本心を見て見ぬふりしたり、周囲の人の価値観や専門家の発言を鵜呑みにして右へ左へ動いていたら、何が起きても、体験から何を学ぶべきかがわかりにくくなります。

スピリチュアルな知識がなくてもいい、途中どんなに間違ってもいい、単純でも「こう思った。だからこう生きた」「こう願った。だからこう生きた」といえるような生き方をして、整合性を確かめながら、起きた出来事から学ぶ姿勢を保てば、人生というグルの導きによって、必要なタイミングで必要なことを学ぶことができます。


自由

育った家庭環境が特殊だった場合、子どもはその家庭内でサバイバルするノウハウを学習し、かつ周囲の人の反応の仕方を見聞きして学習するため、普通の人とはかなり違った反応の仕方を身につけることがあります。

そして学習した方法をもって世の中でサバイバルしようとするため、普通の人がある状況に対して反応するのとは違う反応をして周囲を戸惑わせるし、そのわけのわからない反応に対する普通の人の普通の反応によって余計傷つくという連鎖が起きます。

いつの間にか自分に組み込まれてしまった自動反応を克服していくことは困難なことです。

それはパソコンのMSーDOSに組み込まれている情報を素人が手書きで書き換えるのと同様に難しいことです。

それをできるとしたら、コンピューターの仕組みを知りコントロールすることができるコンピュータープログラマーのように、心の仕組みを理解していくひとつひとつの過程、心をコントロールしていくひとつひとつの過程を経た末に自動反応を克服できるというわけです。

一筋縄ではいかないことですが、でももしもできたとしたら、普通の人とは比べものにならない自由を獲得することになります。

なぜなら生育環境に恵まれた人は、学習の結果として起きる自動反応がたまたま周囲の理解や好意的反応を引き出しやすい反応であるために困った状況に見舞われず、一生自動反応でもつつがなく暮らせるというだけで、自動反応自体を克服した人たちではないからです。

生育環境がどうであれ、自動反応を克服しようとする人たちは、より真の自由に近い自由への扉の前に立った人といえるのかもしれません。

無手の法悦

友人から勧められ「無手の法悦(むてのしあわせ)」という本を読みました。

明治時代末期、おそらくまだ丁稚奉公の制度があった頃、踊りの師匠の養女となった著者は、養父のもとで修行中に起きた事件で、両腕を失いました。

犯人は養父でした。

養父の二番目の妻が、別の人と駆け落ちのような疾走をして、養父の激情が高まった末、同居していた妻の親兄弟と養女たち計6人を、武士の家系だった養父が刀で次々惨殺するという事件でした。

踊り子を目指していた著者は、死んだふりをすることでとどめをさされることを逃れました。

著者の際立った特徴は、自分の両腕を落とした養父について、恨み辛みの念をまったく持たなかった点です。腕をなくした悲しみや、生活の不便や将来の行く末を案じる気持ちはあっても、養父の刑を軽くするためなら証言台に立つというほどでした。

当時は女に教育はいらないという意見もあった時代ですので、そのような考え方は無学ゆえの従順さによる部分もあったかもしれないのですが、その心持ちはおそらく著者本人を救う結果につながったように思います。

著者は、しばらくの間は、見世物小屋を回っていました。

仙台巡業の宿でカナリヤをみたときに「小鳥はすべて口でやっている」と気づき、自分も口で字を書こうと思い立ちました。

巡業に同行していた実父に買ってきてもらった筆を口にくわえて、紙に字を書こうとしたとき、字を知らないことに気づき、著者は事件以来初めて涙します。

小学校に入学したいと校長に頼みこんでみたものの、巡業中で通うことはできず、一時的なボランティア先生や、宿の経営者の子どもに教わりながら字を覚えました。聖書や広辞苑をプレゼントしてくれた人もいました。

さまざまな経緯を経て、著者は最終的に尼僧になります。

実兄がホルマリン漬けにして保存した腕は、高野山に奉納され腕塚となりました。

この本で私が最も印象的に感じたのは、著者を導くスピリチュアルな感覚や現象から思うことです。

この本に書かれているスピリチュアルな感覚や現象とは•••

事件に遭う直前、それを避けようとする方向の選択肢があらわれたこと。

事件が起きたときに、実兄宅に置いてあった三味線の皮が両面とも切れたこと(相似形の共時性)。

事件のさなか著者は現在起きていることやこの後起きることを直感的に理解できる状態になっていたこと。

救おうとするエネルギーがあらわれること(危機的状況では別次元のサポートが際立つことがあり、それは内的感覚では明確に感じられる)。

などです。

そこから思うあれこれのこととは•••

人間は、無事に生きたいと願う肉体を持つ存在であるため、このような事件や事故の前には、本人にとっても不思議と思えるような共時性が起きることがよくあります。

二つの方向に分かれる分岐点の先にはそれぞれの経験や学びがあります。

ふと思うのは「もし自分が霊能者や占い師で、事件前にアドバイスをする立場にあったなら、事件を避ける方向のアドバイスをするのかどうか」という点です。

もしも人間の幸せが、「肉体が長期的に安定していること(ごく普通の「幸せ」という概念の一部)」とするならば、不幸としかいえない事件です。

苦労して、たくさんの努力とたくさんの人や霊の導きを受けて、「腕を失うことで本物の腕や手を得た」と実感し「法悦(しあわせ)」を感じられる過程があるなら、事件に巻き込まれなかったから運が良かったとか、事件に巻き込まれたのは本人のネガティブカルマとか簡単にはいえるものではありません。

事件にまきこまれるか否か、ふたつの人生に分かれる分岐点で共時性が拮抗するような動きをするとき、霊能者や占い師は、自分自身の価値観を入れずどのように伝えるのでしょうか。

また、肉体の腕をなくして本物の腕を得たと著者が実感したように、腕や手に象徴されている「質」や「はたらき」があるわけです。

私たち人間は、3次元という物理的な次元で、肉体や物質が象徴的にシンボルする「質」や「はたらき」について学び、その資質を自分自身の精神性として獲得していく過程にいるのかもしれない、とも思います。

もしも人間が、より本質的な「質」や「はたらき」を獲得していく学びを運命づけられた存在とするならば、生まれで死ぬまでの過程において、得たものすべてを失っていくことも、哲学的不毛さとしてではなく、成長の過程としてとらえることができます。また物質世界に興味のない、スピリチュアルすぎる人は、もう少し物質に興味を持つべきだといえるかもしれません。

あれこれ奥深く考えさせられる本でした。

ホームページ移転のお知らせ

いつもお世話になっております。

契約しているプロバイダから、サーバー老朽化のため新しいホームページサービスに移行する旨連絡を受けたので

ヒプノセラピーのサイトを移転しました。

新しいURLはこちらです。

http://userweb.alles.or.jp/youly/index.html

ご登録のほど、どうぞよろしくお願いします。

今までのサイトは2月から閲覧できなくなるそうです。


無条件の愛を求める気持ち

無条件の愛を求める気持ちは、人間関係上の問題の原因になることがあります。

無条件の愛を求める気持ちとここで書いているのは、相手に聖母•聖人のような愛を期待し、損得勘定で生きる普通の人間を侮蔑するようなジャッジの仕方です。

そのような求め方をすると、相手の態度次第で聖人か俗物かといった判断をしがちになり、崇拝するか軽蔑するかという極端な反応になりがちです。同じ相手に対しても日によって極端に態度が変わることになってしまう場合があります。

無条件の愛を求める気持ちは、実は、赤ちゃんのときに叶えてもらっていたような究極の満足感をもう一度感じたいとか、赤ちゃんのころに叶えてもらえなかった恨みをはらしたいというような気持ちが、無意識的な基盤になっているのではないかと思います。

赤ちゃんは求めます。いつでも一緒にいると約束してほしい、いつでも私を好きでいてほしい、いつでも笑顔で優しくしてほしい、私がいて幸せだと言ってほしい、私のつらい感情もすべて受けとめてほしい、私が困ったときには問題解決してほしい、私の代わりに私を世話してるほしい、私のために生きていてほしいと、究極の犠牲を、しかも喜んでしてほしいと求めます。

赤ちゃんだった頃に叶えてもらっていたこと、赤ちゃんだった頃に叶えてもらえなかったことを大人になってから人に求めると、問題のある破壊的な行動になりかねません。

願いが叶えられないと裏切られた気分になり、どうせ自分なんか必要とされていないと嘆き、なげやりになり、周りが損得勘定で生きている無価値な大衆だと否定します。

引きこもりの子が母親に、DVの夫が妻に、介抱してもらっている酔っ払いが周囲の人に、求めていることの本質は無条件の愛なのかもしれません。人格障害などもこのような心境と無縁ではないように思います。大人の場合、赤ちゃんと違って体が大きく口達者で要求も高いから手に負えない場合もあります。

そのようなワガママは身近な人にしか通じませんので、身内と他人で圧の差が生じ、外では過度に気を遣って萎縮したり敵対したり心を開かないという形で自己防衛する場合もあります。

私たちは皆赤ちゃんだった時代があるので、多かれ少なかれそのような気質をどこかしらに持っていて、程度の差があるだけなのもしれません。

自己中心性の克服は大人になるための成長課題のひとつです。

ではどういう方向を目指すべきかというと、ヒナが育ち卵を必要としなくなるように、外の世界とうちの世界の圧を同等にしていくことです。

心許せる相手に対しても社会的な接し方をストレスなくできるようになり、圧の差を減らすこと。

今日から始められるわかりやすい課題としては、家などで身近な人に丁寧に接すること、恩に着せずにしてあげられるレベルを高めること、してくれなかったら不服に思うことを少なくしていくこと、感情をぶつけるのをやめて穏やかに伝えられるようになること、相手の立場や気持ちを大事にすることです。

それができれば外でも自然体でいやすくなります。







冬支度

そろそろ冬支度の季節になりました。

先日、田舎暮らしの友人宅に、薪準備の手伝いに行きました。

埼玉県の材木屋で、トラック2台分1400キロの廃材をタダでもらって、うち一台を私が運転し、スリリングな峠越えの下道ルートで長野県に運びました。



今どきの薪割りは、斧ではなく、丸ノコとテーブルが一体化したテーブルソーなる文明の利器で切ります。



同行した82才の父が、がんばってカットしてくれて、1400キロの廃材が1日半ですべて薪になりました。



つね日頃運動不足の私は1日半でもヨレヨレになりましたが、あれこれ考えずただひたすら薪割りに専念することが意外とよい気分転換になりました。

今は筋肉痛も癒え、気分爽快に、相談業務をしています。


錬金術

もうすでにご存知の方も多いかもしれないのですが、錬金術って、現実に存在しているみたいですね。

1996年に日本の女性が特許をとっています。

http://www.patentjp.com/08/U/U100079/DA10001.html

金や白金が作れちゃうんですね。

錬金術ができたというのは哲学的なインパクトがあります。

また、アフリカでは、空気の薄い、崩落の危険がある狭い縦穴に子どもが潜って金を探しているので、こういう発明によって実質的な変化も起きると思います。

大量に生産できたら希少価値がなくなるから、昔の金本位制経済は成立しなくなりますね。

それとこの特許には、放射性物質について、半減期の異なる別の放射性物質に変えてしまうことで、無害化できると書いてあります。

1900年代にこんなことわかってるんだったらそうすればいいのになぁ。どうして使わないのかな。

つれづれ

ネットで買えない本で読みたい本があって、初めて国会図書館に行きました。





建物の写真撮ったりなんかして。おのぼりさん。


本をコピーしたかったのですが、著作権の関係で、本の半分までしかコピーできないそうです。


本を傷めないためにセルフコピー禁止で、コピーをしてもらいます。郵送もできます。値ははるけど、楽チン。


二度に分けたらコピーできるのかなぁ。今度聞いてみよう。

ヒーリング

私がヒプノセラピーを始めたのは、神経症や精神病に効果がある可能性がある、という点に惹かれたためでした。


エネルギー・ヒーリングなど証明できないことについて、私は基本的に不可知論的立場から「証明できない以上、否定もしないし、あまり深く考えない」という態度で関わってきました(そうはいってもヒプノセラピーをしているとその種のことは沢山出てきますので、多いに関わってはきました)。


ヒプノセッションで出てくる過去世についても「本当に過去世が存在するのですか」と聞かれれば、「例え話としてでも自己理解の一助として役立てばよいと思います」と答えてきました。


でもあるとき、神経症や精神病にもヒーリングが有効な可能性があるという話を聞き、ヒーリングを習いました。


せっかく習ったので、ヒプノセッションにいらした神経症や精神病のお客様に無料でヒーリングをつけくわえてみたところ、幻聴が減ったり、過食嘔吐の回数が減ったりしたので驚きました。


エネルギーやヒーリングも馬鹿にできない、と思いました。


ただ、ヒーリングだけではなくヒプノセラピーも行いましたし、お客様が他のセラピーも併用している可能性もあるので、厳密には、何が功を奏したかわからないわけです。


前に、認知症のケアホームで介護のバイトをしていたとき、ある利用者さんがひどく具合を悪くして、数日後に救急搬送されたことがありました。


救急搬送される前日、私が当直勤務で、利用者さんが夜通し「助けてください」と何度も呼ぶので、気の毒でいたたまれなくなってヒーリングをしました。


ヒーリングの講習会では「相手の了承が必要」と習いましたが、病状が悪化している認知症の高齢者にヒーリングの概念を理解してもらうのはほぼ不可能と思われたので、「これがこの人にとって良いことなら受け取ってもらえる」という限定をつけてヒーリングを行いました。


ヒーリングをしているとき、色などを思い浮かべるために目を半開きにしたり閉じたりして、イメージの世界に集中するときがあるのですが、そのイメージの中に、ヒーリングの聖者たちがバンバーンと浮かんできて、それが私にとっては予想外だったので「もしかしたら良かったってことかな」と思いました。


でもその翌日救急搬送されたこと、さらには余命一週間と宣告されたことを後日出勤のときに聞き、ヒーリングと肉体的治癒は別物だったのだなと思いました。


利用者さんに個人的愛情を感じていたケアホームスタッフたちはかわるがわる、余命宣告された利用者さんのお見舞いに行っていたのですが、持っていったジュースをあっという間に飲んでしまうほど元気で、かえって悲し気なスタッフに「どうしたの?元気ないの?」と聞いたりするので、疑問を感じたスタッフが看護婦さんに「本当に余命一週間なのですか」と尋ねたところ「先生はそう言っているのですけどねぇ」と言われたことなど、話に聞きました。


それからしばらくして利用者さんは退院してケアホームに戻ってきて、私が辞めるまで元気でした。


その方は感染症で危篤になったので、救急搬送先の抗生物質投与などの治療が功を奏した場合、危機を脱することはあり得ることでした。だから、この場合も、厳密にはヒーリングのせいかどうかは不明です。ちなみに私がこっそりヒーリングをしたことは関係者には誰にも伝えていません。


ヒーリングに効果があるかどうかについて結論はでません。


でもまぁわからなくてもヒーリングは害にならないし、私の場合はヒプノセラピーにつけたりたまたまご縁でするだけで、お金とっているわけでもないし、何がきっかけで良くなったって構わないじゃないか、というスタンスで、たまにヒプノセラピーと併用してきました。


ただそのような思い方にも欠点があることに最近気づいたのです。


それは、ヒーリングが功を奏した可能性のあるケースがいくつあっても、自分のヒーリングへの信頼はまるっきりついてこないことです。


別の要因でよくなったのかもしれないと思っているため、新たなケースに対して、自分が積極的にヒーリングをしようという気にならず、申し出る気になりません。


むしろ自分なんかまるっきり蚊帳の外において、私が知っている別の良いヒーラーを紹介したくなります。


先ほどのケアホームでも、そばに私しかいないからしただけであって、ヒーラーがいたらその人にお願いしたにきまっています。


「たまたまなんじゃない?」「併用した治療がよかったんじゃない?」「もともと治る生命力があったんじゃない?」等の考えをともなう経験がいくら積み重なっても、いつまでたってもちっとも自信なんかつかないし、いざという時には自分以外のヒーラーにお願いしたくなる人って、もしかしたら私だけじゃなく意外と多いかもしれませんね。


ところがこの間、お米をといでいたときに、ふと、料理を美味しくするためのヒーリングも習ったことを思い出して、米をとぎながらヒーリングをしました。


そのあと炊いたご飯を食べたら、すごく美味しくてビックリしました。


色もいつもより白くピカピカしているように見えました。


ヒーリング講習会で料理のヒーリング方法を教わったときは、「神経症や精神病に有効な方法を知りたいのであって、料理を美味しくする話なんてどうでもいい」と思っていたのですが、同じ米びつに入っている米がヒーリングによって変化することを体感することは、自分のヒーリングにも少しは効果があるんだと思えるようになるためには役立つのですね。


ヒーリングってやっぱ大切かも、と改めて思いました。


でも、そのあとまた疑り深く考えてみると、ヒーリングをするために何度もといだせいで、いつもよりヌカがきれいに洗い流された可能性があると思えてきました。


同じ回数といだお米でなければ厳密にはヒーリングのせいとはいいきれません。


どこまでも疑り深い自分です。


『水からの伝言』に出ているご飯実験みたいなやり方で、完全に同じ条件に置いたご飯で、ヒーリングをしたご飯とヒーリングしないご飯の差を記録していくような方法が、私には向いているのかもしれません。


疑り深いうえに面倒臭がり屋な自分は、ホント始末に負えません。



追記
書いたあとなんかふとわかったような気がしたのですが、ヒーリングは媒体になる人を選ばないのですね。ヒーリングという独立した意識があって、そっちで判断してくれるんじゃないかと思いました。人間は単なるアースで、誰でもできるときはできるし、できないときは誰もできない、といった類のものなのかもしれないと思いました。であれば自信を持つとか持たないとかはどうでもよくて、やった上で結果はお任せするということですね。自信なんかなくてもヒーリングという独立主体を信頼していればいいということ。たぶんこれが今の私の結論です。

つれづれ

昨夜は、里親会の仲間たちと新宿のタイレストランで食事をしました。

久しぶりに顔をみて、いろんな話を聞けて、楽しかったです。

帰り道、歌舞伎町の方にゴジラがいると聞いて歩いていると


ん?あ、あれは





ヒョー!ゴジラだ~!

みえません?真ん中のとこ。小っちゃく写ってるの。

私のアイフォンはこれで限界。

仲間がアップ画像を送ってくれました。





こわっ





プロフィール

Author:ユーリ
新宿区中落合でヒプノセラピーをしています。

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