心の世界について、思うことを書いていきます。 (実際には日常的なことばかり書いてます)
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先日の記事で「ユングによると無意識はより偉大な全体性へ私たちを連れていこうとするもののようです。無意識的過程を意識化・統合できる自我を育てることによって、私たちは個性化していくもののようです」と書きました。
無意識的過程を意識化・統合することについて、今のところの自分の考えを書かせてください。 無意識的過程を意識化・統合するというのは、自分が本当はわかっていること・本当は感じていることすべてをふくめて、よりトータルで的確な判断ができるようになることなのだと思います。 そもそも無意識的過程とは、私たちの意識が狭すぎる思考をしているために起きている代理的作用をかなり含んでいるようです。 「こうあるべき」というのが強くて拒絶してしまっていた自分の感覚・願い。必要な知識が足りなくて全体像を理解できないまま棚上げしたパズルのピースのような記憶。見たくなくて、関心がなくて目をそむけている課題。変な環境にいるときにバランスをとるための保護作用。私たちが偏った解釈や反応をしたためにバランスをとろうと起きてくる補償作用。そういったものを今のところぜんぶ無意識が引き受けてくれています。 子供のときやってもらっていた多くのことを大人になったら自分で引き受けるように、無意識的過程は、やがて意識が成熟して自覚的に引き受けるべきことなのかもしれません。 「わけがわからない」BOXに分類したものがいっぱいつまっている無意識は、意識にとっては怖いもの、魑魅魍魎が住むジャングルのように見えます。しかし「わけがわからない」BOXにあるものは本当に意味がないのではなく、私たちの意識がその意味を認めきちんと位置づけるほどに成長していないだけ、悪く見えるのはそれ自体に悪い性質があるのではなく、本質的な意味がわからなくて今のところ悪いものとしか見れない私たち自身の未熟さのあらわれかもしれないのです。本来であれば正しい位置づけを与える必要があるものなのかもしれません。 意識は関わらないことで安全を保とうとしがちです。無意識に追いやったものたちが正しい理解を求めてくりかえしやってくるので、意識は怖くなっていっそう固く扉をしめ、どこかもっと光に満ちた世界に行きたいと願います。しかしその扉のせいで損害を蒙ってもいます。同じ扉の向こうから、問題のヒントも光も愛もやってきているからです。正しい理解と、処理解決能力が発達するほどに怖いものがきえ、理解可能な光と愛に満ちた世界が広がっていくのでしょう。 超常的な力というのも同じ扉からつながっている世界なのかもしれません。よきにつけあしきにつけ自分が感じていること・発していることをきわめて精妙に自覚できるようになればなるほど前より予想は当たるようになるでしょうし、望んだ結果を引き出しやすくなるのも当たり前なのかもしれません。私たちが個を超えてつながっているなら心を通じてさまざまなことがわかるようにもなるでしょうし、影響を与えられる範囲も増えていくでしょう。でも、恐れていたものを無理のない形でおさめられるような理解力が発達していなければ、自分の正直な気持ちも人の気持ちも人間の歴史も怖いものだらけですから、入ってきたところで迷惑なだけ、正しい活用はできません。 そして無意識は、「頼りになる自分以外の何か」という位置に永遠に奉っておくようなものではなく、90%、80%、70%とパーセンテージを減らしていき、意識の一部として吸収・整理されていくべきものなのだろうと想像します。「無意識的過程」はやがては必要なくなり、無意識は大部分が意識になっていくのだろうと思います。そして私たちは、かつての自分にははかりしれないほど大きかった自分の意識の全体性を生きられるようになるでしょう。 無意識的過程を意識化・統合できる自我を育てる方法とは、怖いもの・見たくないものを避けて狭い心理的空間にとどまることではなく、むやみに信じることでもなく、能力をはるかに超えたことにやみくもに挑戦することでもなく、むしろ筋トレのように今の能力を少し超える程度の負荷をかけていくことが効果的だと思います。今の自分の能力では理解しにくい・受け入れにくい、だけれども今現に潜在意識からやってきているメッセージに心を開き、その意味を理解する成功体験を積むことによって、効率よく進んでいくのだろうと思います。 |
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アニメ『母を訪ねて三千里』の主人公であるマルコは、お母さんを探す旅をしていましたね。毎回毎回、さっきまでいたところにたどりつくような話が続きます。待ちに待った、マルコがお母さんの胸に飛び込む場面は最終回の最後、ほんの瞬間のことで、画面の下に「完」と出ます。そのあと続くはずのマルコと母の幸せな日常生活は語られません。つまり『母を訪ねて三千里』は、お母さんに会うという目的のある旅という途中経過に終始する物語なわけですね。
アニメだと何話にもわけられるけれど、紙芝居だったら一枚です。紙芝居は、一枚一枚の絵に費やされる時間の長短にかかわらず、一枚の絵です。「旅をしている場面」の次は「変化のきっかけの場面」か「変化の瞬間の場面」で、その次は、「変化したあとの新しい世界」です。また紙芝居の一枚一枚はどれも、確かにあった展開の記録として省くことのできない必要不可欠なシーンで構成されています。 心というのは紙芝居と似て、時間の長短にかなりの自由度がある絵の集まりでできているのかもしれないと思うことがあります。夢の変化の仕方も紙芝居のように必要最低限の段階的な展開を見せます。。似たような夢をくりかえし見ていたのが、あるときからもう見なくなるという体験を私は何度かしましたが、なんの前触れもなく見なくなるのではなく、夢の中で問題解決したことをしめすような夢を見て、それから見なくなります。ヒプノセラピーで見る内的世界のイメージも、最初に浮かぶ一場面のなかに、そのあと語られる物語全体の印象がこめられていることがたびたびあります。自然の風景であったとしても意味深い心象風景なのです。 もし私たちが走馬灯のように人生を振り返るとしたら、過ごしてきた時間と同じだけの時間はかからないでしょう。パッと見るだけでその時代を了解できるようないくつかの場面が浮かぶだけで十分ではないでしょうか。心の世界において「時が進む」というのは、実際のカレンダー上の時の進み方とはぜんぜん違って、紙芝居をめくるような体験であり、古い時代が終わって新しい時代が始まることです。逆にひとつの状態が続くかぎり、何年たっても心の時は進みません。 私たちが「変化を起こそう」「前に進もう」とするとき、望んでいるのは新しい時代が始まるような変化です。気をつけなければならないのは、あせることや力むことはほとんどの場合、マルコの話を一話増やすような結果に終わることです。マルコがいくら焦って一箇所多く探してもお母さんには会えません。力んで御旗をふるほどに変化は上滑りし、意識と無意識・表面と深層は乖離し、現実への影響力はかえって薄くなるように私にはみえます。 このところ私は『ユング自伝』を読んでいます。 ユングによると無意識はより偉大な全体性へ私たちを連れていこうとするもののようです。それを包含できるだけの自我を育てることによって、私たちは個性化していきます。個性化とは、種が花になるように、本当になるべき自分になっていくということです。ユングは、夢の世界が彼をつれていく、狂気にひきずりこまれるかもしれないような暗黒の中に踏み込み、解釈しつづけ、最終的に曼荼羅の形の街の中心の広場に立ちました。そこには赤い花ざかりの木蓮の木が立っていて、木に日の光が注ぎ、同時に木自身が光を放っている光源のようでした。ふりかえってみれば曼荼羅のすべての道は街の中心へ向かう道でした。曼荼羅は自己の表現、心の発達のゴールは自己でありそれ以外ではない、とユングは悟ったそうです。ユングはスピリチュアルな世界で言われている真理を科学的な視点を保ちながら到達した人なのでしょう。エンドレスな物語をひとつ終わらせるごとに曼荼羅の中心の自己に私たちは近づいていくのでしょうか。 ユングについては自分でもまだよくわかっていなくてまとまりがない書き方になってしまいましたが、今日はそんなことをつらつらと考えていました |
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今日、正座したままうつぶせに丸まり、猫姿勢でなんとなくいじ〜っとしていたら、ふと、「もしかして寒いのだ」と気づきました。
天気予報みていなくて、気温が低いのにいつもと同じ格好で、しかもついさっきバイクで雨に濡れたのを忘れていたのでした。 子供が眠いとき眠いとわからず泣いて、泣きつかれて寝て、起きると機嫌直るのとおなじ原理ですね。 大人でも、肉体からくる気分の理由を別のところに求めてしまうことは意外にあるものかも。 そういえば前にアサーション(自己主張)トレーニングの講座で「体がどういう状態のときに自分がキレやすいか把握しておくとよい」と教わったことがありました。誰かと一緒にいる場合「あなたのここが悪い」とつっかかるより、「腹ペコだとついあたってしまうけれどあなたが悪いわけじゃないの。いま腹ペコだから先に謝っとく。ごめんね」と言う方が理解されやすいとのこと。言われた方はあせるだろうけどその方がこじれないらしいです。 未だ悟らぬ、肉もてる身のサガでございますね。 そうとわかっていても体を楽にできない場合もあるから「火もまた涼し」的精神修養が必須なときもあります。 けれど、面倒くさがりで体が弱っているのに気づかない私のような方は、とりあえず「寒くないか」「おなかすいてないか」「眠くないか」というチェックリストを思い浮かべてみることは役立つかもしれません。 物理的な対処は単純で即効性があります。 なんか着て食べてくださいね。 |
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昨日、両親が遊びに来ました。この夏、両親が家の大工仕事を手伝いにきてくれたお礼をしたかったけれど忙しくてなかなか会えなくて、昨日やっとご飯&カラオケに行きました。父のリクエストにこたえて「花」を3回も「千の風になって」を2回も、歌いました。「千の風になって」を聴きながら父は涙ぐんでいました。私は父の涙をはじめて見ました。葛藤があった親子が生きているうちにこのような和解体験ができるのは稀なことだし恩寵ですね。これらの曲は(歌うのは苦手だけど)父からの贈り物として好きな曲になりました。
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(「字の色が薄くて読みにくい」というご意見をいただいて私も直したいのですが、ブログ全体の文字の色を変える方法がわからないので、しばらくのあいだ記事ごとにあれこれ違う色をためしてみます)
人の中に見えるものは自分の中に同じ要素があるといいますね。 人をどう思いどう扱うかは、自分をどう思いどう扱うかとイコールだといいます。 私も、人の中にみえるものは自分のサブパーソナリティーだと思います。 相手の人を形容詞であらわしてみると、どういうサブパーソナリティーかわかります。 「怒りっぽい人」 「柔和な人」 「強気な人」 「弱気な人」 「率直な人」 「遠慮気味な人」 「貪欲な人」 「奉仕の人」 「陽気な人」 「ネガティブ思考の人」 「運がいい人わるい人」 などなど・・・相手の中に見る資質です。 相手の中に見る資質が自分の中にあるとは思えないときもあります。 サブパーソナリティーは「自分のなかのそういう部分」ですが、「今そう」でなくても「そうなる可能性」「そうなったときの自分」までひろげて考えるとわかりやすいです。 うんと過去とか将来まで考えれば、潜在的な可能性として、誰でも、どのようになる可能性もありますね。 他者をどう思い・どう扱うかにあらわれるのは「自分の潜在的な可能性」にたいして『自分』はどう思い、どう扱っているか、ということです。 『自分(本体)』と「自分(の部分)」との関係性。 「怒りっぽい人」を嫌っているなら、「実は自分の中にも怒りがある」ということ(もあるけどそれだけ)ではなく、相手を嫌う度合いと同じくらいの強度で「怒る自分」を嫌い、抑えているのかもしれない、と考えてみます。 そのため、現実的にはまったく怒らない人、怒らなさすぎる人になっている可能性、大です。 だから「自分にも同じ欠点があるのか」と自他ともに責めるのではなく、「まずは自分から直すべき」といたらない自分に鞭打つわけでもなく、『自分(本体)』と「そういう自分の部分」の関係性が今のところあんまりよくないだけ、と考えてみることもできます。 『自分』が「そういう自分」を許してなくて、「自分の部分」が『自分本体』に受け入れられず孤立し、そのためにかえって変化しにくくなっているのかもしれません。 「私はこんなに自分の怒りにたいして不寛容だったんだな。あの人は確かに怒りっぽすぎだけれど、私があの人を嫌うぐらいの強烈さで自分の怒りを押さえ込んでいるとしたら、それは抑えすぎかもしれないな。私の場合はもっと怒る自分を許してもいいのかもしれない」と思ったほうがはるかに楽になるかもしれないし、そうしてみたら前ほど怒りっぽい人が気にならなくなるかもしれません。 おなじことですが、たとえば嫉妬の強さは、自分が実力以上に恵まれひきたてられる可能性をどれほど抑えているかの目安になるでしょう。 自分がどのような言葉で相手を批判するか、自分の思考に耳をすませば、『自分』が「自分の運の良さ」を許さない理由・言い分がわかりやすくなるかもしれません。 相手を好きになって素直に応援できるようになるのと、自分が幸運に恵まれる時期は不思議なことに一致していくのかもしれません。 そのように他者にたいして自分が抱く感情・思考・態度が、『自分』と「自分のある部分(サブパーソナリティー)」との関係性をあらわしているのという想定でみてみれば、『自分』が「自分」を愛なく扱っていたことに気づきやすくなります。そして自分同士がより愛と調和に満ちた生かしあう関係になる選択をしやすくなるのではないかな、と思います。 |




