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偏りに気づくこと

私たちは、自分の偏りに気づき、直していくことで、さまざまな意味でバランスがとれてきます。







でも、偏りは、当たり前になっている自分のあり方ですから、そもそも自覚することが難しいです。







変なたとえですが、ジャンクフードを30年食べ続けていたとしたら、31年目もジャンクフードを食べる方が自然な感覚がするはずですし、世の健康志向の人を見て、「凝り固まっている」など否定的な感想を持つのがふつうです。







食習慣を変えるとしたら、「なんだか前と違う、変な、不自然な世界に入っていく」ように感じるでしょう。







つまり、何が自然で何が正しいかという自分の感覚・判断そのものが偏っているのですね。







偏りというのは「当たり前と感じることがそのラインにある自分の感覚そのもの」の偏りなのです。







だから「自分がどれほど絶対正しいと確信しているか」と「偏りの有無」は関係がありません。







というかむしろ、確信と偏りは、正比例の関係にあるかもしれないぐらいです。







ですので、気づくのはけっこう難しいことですね。







逆に「なぜ気づけるのか」を問うた方が早いくらいです。







なぜ気づけるか、気づくきっかけになるのはどういうことか。







それは外側の世界との関わり、変化です。







自分とぜんぜん違う人を見たり、ありえない人がいて困ったり、自分の歪みを補助してくれていた歯車のような人がいなくなって現状維持できなくなる、などなど。







他者や新しい環境の特徴に気づいてはじめて、自分の特徴に気づきます。







今まで当たり前だったことが当たり前でなくなるときに感じる違和感があってはじめて、意識して見ます。







当たり前のことが当たり前でない世界に直面すると、心の平和が乱さることもあります。







そういうとき「自分の偏りに気づく」というあり方は、相手を肯定して自己否定することと勘違いしがちです。







でも、「偏りに気づく」といっても、「偏り」が「悪い」という意味ではなくて、「特徴」ということです。







無自覚だった自分の特徴を知ること、ほかのあり方の良さも認めることです。







外国に行って初めて日本を知る、というのと同じです。







外国の良さを知っても、日本が悪いということにはなりません。








どちらがいいか争う必要もありません。







それぞれの長所や短所があって、TPOにあわせて使い分ければいいのでしょう。







長崎・神戸・横浜が、古くからおしゃれな街になったように、両方の特徴を受け入れて、目的や状況にあわせて使えるようになるだけ、選択肢が広がるだけです。






そんなふうに自由になれたのは、異国文化にふれたから。







違和感を感じさせてくれた人や状況があったからです。







気づくほどハードに自分を揺さぶってくれた人も、ずっとそばにいてくれた人と同様、ご縁のよい方々といえるのでしょうね。







愛なしで、気づかせる揺さぶり方はできないし、愛なしで長く支えることもできないだろうと思います。







未熟でもお互いを愛しているから、痛いながらも気づけるし、気づけるまで一緒にいれる、ということなのかな、と思います。


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キプロスセミナー

私が先日行ったキプロスセミナーについて、ダスカロスの公式HPで、豊富な写真つきで紹介されています。トップページから「Report」をクリックするとご覧になれます。ハリネズミが可愛いです。




9月13日~15日に、ハラランボス氏による一般公開講座が開かれます。「About Circle」をクリックすると詳細情報が掲載されていますので、ご興味のある方はどうぞお出かけください。



潜在意識が学ぶ その②

潜在意識にも、思い違いがあります。







私は、セラピーを始めるずっと前、それほど一般的ではない人生を送っていた時期があります。







20代前半の人が普通は行かないような場末の酒場に出入りすることもありました。







そこで出会ったさまざまな人たちの、社会から忘れさられた痛み悲しみに、当時の私は親しみや共感や憐れみを覚え、自分だけはそのことを覚えていようと決めました。







誰が知らなくても、誰が忘れても自分だけは覚えておく、そのことで自分なりの愛や誠意を示そうとしたのかもしれません。







その決断のために、今はまったく違う世界に生きる私は、未だに潜在意識の中に、うらぶれたエネルギーを保持することになりました。







そのことに気づいたのは、この前たまたま入ったカラオケ店でのことです。







あまりにうらぶれた店の雰囲気に、自分のうらぶれた部分が刺激され、昔よく酒場で歌っていた曲の数々をシャウトしました。







かつて私が行っていた酒場のカラオケはボックスタイプではなくて、1曲いくらか支払ってみんなの前で歌うものでした。







みんなが喜んだ歌、それを歌うとみんなが踊りだす歌がありました。







私はタンバリンで拍子をとったり、みんなが喜ぶ歌を歌ったりしていました。







そういう曲の数々を思い出しては歌いました。







当時もカラオケ自体は楽しいものでしたが、環境やストーリーが悲しみを背景としていたため、私の中では、悲しい思い出として残っています。







私は、今では、エネルギーがどう、エレメンタルがどうとか言っていて、自分自身それを信頼してもいます。







「もう昔のことは忘れたつもりだったのに、こんなに迫真こめて歌えるということは、エレメンタルがまだまだ沢山残っていたんだな」と気づいて、我ながらおかしかったです。







まあ、当時の具体的なことはよいとして、そのようなエレメンタルを残した一番の動機を自分で探ってみると、それは自分なりの愛情だったわけです。







けれど、今思えばそこには思い違いがありました。







私が覚えている人たちの、私が覚えている姿は、その人たちの本質ではありませんでした。







一時的なあり方です。







私が「その人たちのことを覚えておく」というとき、当時の私は、「その人たちが悲しんだり苦しんだりする姿を心に刻みこんで忘れまいとすること」を意味しました。







それが愛だと誤解したわけです。







でも、心には創造の力があります。







私がそのことを覚えておくことによって、その人たちが変わりにくくなった可能性もあります。







私が、魂としてすばらしい相手の本質を見て、そこにフォーカスすれば、その人たちが変化することを応援するエネルギーを作ることもできます。







二度と会うことのない過去の人への愛の示し方として、自分が実際見た姿や起きた出来事ではなく、本質にフォーカスした思い出し方をすることもできるのだということを、今回学びました。







また、トラウマを保持するためにも一定量のエネルギーを消費するといわれます。







トラウマを手放せば、その分のエネルギーを、意図した、本当に相手に役立つエネルギーを作ることに使えます。







ほんとうに相手のためを思っているのだから、より役にたつあり方があるなら、郷愁よりもヒーリングに役立つあり方に、自分を変えていきたいものです。







おそらく、私たちがトラウマだと思っていることのほとんどは、単に誰かのせいではなくて、このように自分自身のなんらかの思い違いを是正する余地があるのだろうと思います。







相手を変えることができない場合でも、自分を変える余地が残されているならば、私たちがほんとうに良いことを志している以上、少なくともまずは自らを変えていくべきであろうと思います。







自分自身の思い違いに気づき、修正することによって、さまざまな出来事にたいして、ネガティブなエレメンタルを作ることがなくなるのでしょう。







というわけで潜在意識も学ぶのでありました。







(おわり)





潜在意識が学ぶ その①

潜在意識にはいっているものがなんでも正しいというわけではありません。







私は、過去世で、愛する人と死に別れたことで、神さまを恨み信仰を捨てたことがあるようです。







その時以来、私は、信仰の道と、愛する人たちとの生活を楽しむという道を二分したらしく、信仰の道を生きるときには俗世を捨てる修行系になり、逆に、家族を必死に守るときは神を敵視して信仰を捨てるという傾向をもったようです。







放っておけばいつまでもそういう極端な傾向を潜在意識は持ち続けます。







その後の私は、生き別れを含めて、信仰のために愛を捨てたり、愛のために信仰を捨てたりしてきたようです。







この場合、私が学ぶべきだったことはいくつかあります。







まず「死は終わりではない」ということ。







死が終わりではないことは、今は少なくとも頭では理解していますが、過去世ではそのことを知らず、死によって愛する人と引き裂かれたことで神を恨みました。







今は違う考えであっても、過去に作った強力な思いがある種の傾向として残り、無自覚に似たようなストーリーを繰り返すことがあります。







そして、神と愛は二律背反のものではないということ。







私は、自分にとって捨てがたい大切なもの、一時的に捨てたとしても結局離れることのできないほど大切なものを、あきらめずに両立する方法を探すことを学ぶ必要がありました。







自分にとってもっとも大切なものを捨てる傾向は、自分自身を捨てる傾向にもなっていました。







愛する人々の役にたてない自分なら、修行をまっとうできないなら、自分自身のザイルを切ってさよならをするという傾向を私は持っていました。







ザイルを切っていなくなろうとする傾向、前向きに進んでいくための前提を覆す傾向自体が、安定感のないよるべない印象を人に与えること、たとえ何ができなくてもそこにいつづけることを求められているのだということを学びました。








私があきらめずに努力しても、相手の決断や死に別れなど、自分ではどうにもならない理由で大切なものを失うこともあるかもしれません。






そのとき、私は、自分の枠組みを超えた、より大きな調和がなされているのだと神を信頼することを学ぶことができるのかもしれません。






「死が死ではないこと」「放棄しないこと」「信頼すること」・・・今世では知っているつもりのことを、過去世においても、今ふたたび再決断することが本質的な癒しにつながるのですね。







潜在意識が開かれ、ネガティブな過去世を思い出したとき、でてくるのは無念な気持ちですが、その無念な気持ちの背景にある思い違いに気づき、よりスピリチュアルな真実に基づいた視点で再検証し、学んでいくことが、ほんとうに過去世を癒すことなのだと思いました。







ねこちゃんから学んだこと つづき

私にレッスンをしてくれた猫ちゃんは、キプロスを出る前日に、はじめて昼間、姿を見せてくれました。最後にあそびました。昼間だから写真とれました。



猫ちゃん2



猫4



猫3



猫ちゃん、ありがとう。元気でね。






猫ちゃんから学んだこと その1

フラット(宿舎)のベランダには簡易ベッド(コットというのかな?)がありました。







キプロスはこの時期、雲ひとつない青空で、夜はきれいな星空がひろがっています。







ふと、作家の芹沢光治良が、フランス留学中結核に罹ったときに受けたという絶対自然療法について思い出しました。







絶対自然療法とは、自然の中で、体をピクリとも動かず、考えることも物思うことも眠ることもせず、無念無想で5時間ただひたすら仰向けになっている療法で、絶対仰臥(ぜったいぎょうが)ともいいます。







絶対自然療法じゃないけど、星空を見ながら眠るのもいいかなと思い、セミナーの間じゅう、夜はずっとベランダで寝ることにしました。





ベランダ





星空二泊目に、夢をみました。手とか足とか、口にふれたものにチューチューする猫ちゃんがでてきました。。面白くてかわいくて、一緒に遊んでいる夢でした。







つぎの晩、星空三泊目、コットに毛布をしいて、部屋で寝支度をすませてベランダに戻ったら、毛布の上に(実物の)猫ちゃんがいました。







なでても逃げません。私はコットのはじっこに横になって、朝まで一緒に眠りました。








猫ちゃんをなでながら、愛についていろいろなことを思いました。







猫ちゃんはしゃべりません。でも一緒にいると安らぎ・愛情を感じます。かならずしも愛に言葉はいらないのだな、と思いました。ブログに載せる写真をとりたかったけれど、フラッシュたいたら逃げちゃうからやめました。表現は愛の行為でもあるけれど、ときには愛の障害になるときもあって、形あるものと愛との関係について考えさせられました。






猫ちゃんは、まるで精悍な動物が家族を見るような、最高の愛の眼差しで私を見てくれました。異なる存在同士でもほんとうに愛し合えるんだな、と思いました。なにかをわかった気にさせる解釈も、「猫」という概念も捨てて、ただ謙虚に学ぶ気持ちでいることの大切さを思いました。






ならったばかりのヒーリングをすると、猫ちゃんはそのたび気持ちよさそうに目をとじます。光を送って猫ちゃんの幸せを祈りました。ヒーリングはおおげさなものではなくて、ただ愛の自然な表現であり、自然に受けとられていくべきものなのでしょう。物理的な形はないけれど、形がなくなっていくほどに、愛はいっそう純化されていくべきものなのかもしれません。なにもないように見える空や宇宙の空間は、ほんとうは愛でいっぱいなのだろうか、と思いました。







そんなことをつらつら思う、猫ちゃんとの蜜月のときでした。


海の写真いっぱい

キプロス共和国に行ってきました。キプロスは東地中海、トルコのそばにある四国の半分くらいの小さな国です。
(位置確認はこちら)




以下の写真は、パフォス近郊、ペトラ・トゥ・ロミウ海岸です。この海岸はアフロディーテ誕生の地と呼ばれています。(デジカメの写真使うのがはじめてなので、うまくリサイズできませんでした)



海へ向かうトンネルから、写真いっぱい、ご覧ください。



ペトラ・トゥ・ロミウ海岸1










ペトラ・トゥ・ロミウ海岸2








ペトラ・トゥ・ロミウ海岸4








ペトラ・トゥ・ロミウ海岸5








ペトラ・トゥ・ロミウ海岸6








ペトラ・トゥ・ロミウ海岸9








ペトラ・トゥ・ロミウ海岸10








ペトラ・トゥ・ロミウ海岸11








ペトラ・トゥ・ロミウ海岸13








ペトラ・トゥ・ロミウ海岸12



動画もとってみました。画素数を少なく設定したので画像が粗くて海の美しさがでていませんが、波が石を洗う音が私は好きでした。動画はこちらです。






プロフィール

ユーリ

Author:ユーリ
新宿区中落合でヒプノセラピーをしています。

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