インナーチャイルド

以前、私にとっては親との関係が大きなテーマで、私のインナーチャイルドは傷ついていました。







親元を離れ、会わなくなってからも、心の中で親のような考えと戦ったり、親と似ている人に反発しては人間関係がうまくいかなくなる傾向がありました。







スピリチュアルな考え方を学ぶようになってからしばらくしたある日、ふと思いました。







・・・今まで「食べさせてもらっているあいだは何も言えない」と思って直接文句を言わなかったけれど、そういう自分のあり方は愛など微塵もなく、保身でしかなかったのかもしれない。表面上反発しなくても嫌っていたことは伝わっていただろうな。でももしこの縁が一期一会の縁で、宇宙の星と星が一瞬すれ違うように、来世以降もう二度と会わないなら、この関係に愛をもたらすために私は何をするだろう・・・







そう思って私がしたことは親に手紙を書くことでした。親の言動の背景にある考え・価値観を分析し、新しい提案をするレポートを40枚も書きました。それを実際渡してしまったのですから親はいたたまれなかったと思います。今では申し訳なかったと思いますが、その時の私にとってはそれが唯一の愛の表現でした。







その手紙を書いているときに、ハタと気づきました。







どうして自分はこんなに親の考えがわかるのだろう、と。







「こういうときはこう言うだろう」といくらでも想像できてしまう自分がいました。親の言動の奥にある価値観を把握して、無限に運用できる自分がいました。







のちに「あの手紙に書いてあったことはほとんど当たっていた」と言われたので、おおむね正しく把握していたのだろうと思います。でも、正しいか誤っているかは別として、私の心の中に想像上の「親」がいて、その考えの体系を自由自在に運用できてしまうことに違いはありません。






ほんとうの問題は、外側にいる実物の、変わっていく可能性のある親ではなくて、内側にいる「親」なのでした。







自分は「同じ轍は踏まない」と決意していましたし、スピリチュアルでいうところの「人は自分の鏡である」「相手と同じ部分をもっている」という考えはのみこめませんでした。けれど記憶まで含めれば、確かに自分の内側に相手のコピーのようなものが存在しているのです。







それは子どもの自分が何を言っても応戦し、否定し、打ち負かす思考体系です。







心の中で、いくら言い合いをしたところで、自分の中の思考体系と争っているだけですから、勝てないのは当然でした。







私は、心の中にいる子どもの部分だけを自分だと思い込んでいたのですが、他者のイメージも、心の中にいる以上、私の一部といえます。







思考体系は、家を出て、一人暮らしをしてもついてきますし、親が年をとっても強いままです。







そこではっきりしたことがあります。







インナーチャイルドを癒すのは、単に傷ついた子どものイメージを癒すことでは完了しないということです。







傷ついたインナーチャイルドがいるということは、インナーチャイルドを傷つける他者や世界のイメージがあります。







それは自分だとは思っていないから変化させてこなかった自分の一部です。現実にいる親や世界が変わらない限り、変えられないと思い込んでいた自分の一部です。






でも自分=心の中の子どもの部分ではないのです。







心の中に存在するすべての他者、すべての世界の総計が自分といってもいいのです。







この仮説が間違っていたとしても、「親」の思考体系は、精神分析でいう自分のスーパーエゴ(自分を管理する心の部分)、交流分析でいうペアレント、父性・母性として機能していることは確かだと思います。







それは自分のインナーチャイルドにたいしてのみならず、子どもにたいして、他人にたいして、出る可能性があります。







当時自覚はありませんでしたが、今思えば、親のようにふるまう瞬間があったことがわかります。







また「心の中に存在するものが新たな現実を引き寄せる」というスピリチュアルな考えからいえば、繰り返し似たような人や状況に出会い続けてしまう原因にもなりえます。







インナーチャイルドを癒す要は、迫害者としての父性・母性を変化させ、より適切な養育者としての父性・母性を自分の内側に確立することです。







そのことを理解して、トラウマワークをしたところ、私のインナーチャイルドは本質的に癒されました。







私が自分のなかの父性・母性の部分を変えたら投影が消え、親は一個人になりました。恐れることなどまったくない、むしろ、いとおしい存在だということが、今ではよくわかります。







暗くないカラオケ大会

こんど、11月30日にカラオケの会をひらきます。前回の「暗いカラオケ大会」のお知らせをみて「普通のカラオケもやりたい」と声をかけていただいたので、今回は暗くないカラオケの会にします。暗い歌もOKです。参加ご希望の方はメールください。




光の柱をたてる

スピリチュアルな知識や感覚があったりすると、プライベートな場面で、なんとなく空気が暗い場所や波動の低さに敏感になって、避けがちになってしまうことがあります。







あるときたまたま、とあるお店に入って、なんとなく暗い雰囲気を感じました。







「用事をすませたらさっさと帰ろう」と思ったのですけれど、思いのほか待ち時間が長く、去ることもできませんでした。







待ちながら、自分の意識を観察して、考えました。







「自分はもちろん聖者などじゃないけど、本などで読む聖者は、出会う人出会う人を癒していってる。それにくらべ自分はネガティブなエネルギーからチマチマ身を守ろうとしている。こういう自分の態度はいったいなんだろう。すべての人は神さまの子どもで、雰囲気が暗いならなおさらしてあげられることがあるといえる。どんな用事で来たとしても、自分がほんとうにスピリチュアルな道を歩むことを志しているのなら、出会う人すべての幸せを祈ろう」






そんなふうに思いました。







本人の許可なしヒーリングすることは、人間の本質的な権利である自由意志を冒すことになると習ったので、勝手にヒーリングはできません。でも祈ることはよいのだとも習いました。







また別のセミナーで光の柱の立て方も習ったので、とりあえずその場所に光の柱ををたてることにしました。







光の柱の立て方は、ただ光の柱をつくって、柱を通じて上から光が降りてくる意図とイメージをもつことです。







念入りに柱をつくっても、まだ待ち時間があったので、従業員の方おひとりおひとりの幸せと、その方を通じてすばらしい仕事がなされることをお祈りをしていました。







そうしているうちに、なんだか急に空気が輝いたような印象を受けました。







で、またその後、なぜか従業員の人たちが妙に親切にしてくれました。







それ以前と意外なほど差があったので、なぜだろうと思いました。







いくつかの理由を考えてみました。







すごく普通に考えると、「できるだけ早くここを去りたい」と思っているときの私の表情と、相手の幸せを祈っているときの私の表情は、人から見るとぜんぜん違って親しげなのかもしれなくて、それで人の私にたいする反応もおのずとやわらいで、親切にされたのかもしれません。







また、これはすこしスピリチュアル寄りな考えですが、私は、私自身の中に残っている暗さを店に投影して、そのために暗く見えていただけで、本当はもともと店は明るくて、従業員の方は親切だったのかもしれません。祈ることでレンズにある曇りがとれて、本来の明るさを見れたのかもしれません。







ハイアーセルフが、私の初めての試みに「それいいね~」とGOサインをだすために、差がはっきりわかるインパクトを感じさせたのかもしれません。







エネルギーワークも効果的だったのかもしれません。







ほんとうのところどうなのかはよくわかりませんが、どこでも、出会った方々のお祈りをするというのはとってもとっても気持ちのよいことだな、と思いました。







それ以降はいつもそうするようにしています。







町を歩けば、気の毒になったり、戸惑うような光景に出会うことはあるものですから、そういうときは、スピリチュアルなことを多少なりとも知っている自分たちのお仕事の時間というふうにしたら、批判的傍観者でいるよりずっと気分がよいものだな、と思いました。







絶対的な確信

たとえばマッサージの腕に自信をもっている人が、「筋肉をほぐそう!」と意気込んで介入するより、同じ技術をもっていて「体の声に耳をすまそう、感じよう」とする方が、やってもらう側はきっと気持ちよいですよね。







たとえば、楽しませるために考えたメニューをこなすデートより、一応メニューはあっても、相手の希望や状況を優先して柔軟に変更するぐらいの方が、楽しいデートになりますよね。







教育方法の信念があっても、その通りにならないとき、子どもから学ぼうという視点に立てる方が、効果的な介入ができるのでしょうね。







どんなに正しい方法論も洗練された技術も、その運用にあたっては柔軟であるべきで、確信しすぎることは誤りなのだろうと思います。







「こうしたらこうなるはず」、「相手はこう感じるべき」と決めつけることは、現実をみないことです。理屈より現実を下位においています。







相手を感じて、相手から学ぼうとするときは、現実を上位においています。技術・方法論は、より精妙な完成度に至る途上としてとらえられています。








「もう完璧」「こうしさえすればOK」という確信がないと心もとないですが、絶対的に信じていいことはひとつだけあると思うのです。







それは相手が神さまの子どもだということです。







自分がなんとかしようとしている相手は問題ではなく光です。







今は見えにくくなっていたとしても、神聖な自然や宇宙の力と知恵、神さまの意志が、相手の中にあります。







自分が相手にすることはキリストやお釈迦さまなどの聖人にすることです。







この人を通じて、神さまはこの世界に何かよいものをあらわそうとしていて、そのための何らかの道筋があるという仮定にたってみます。







ないものを作り出すことが求められているわけではありません。方法論がわからないだけです。







カール・ロジャースがカウンセリングを生み出したときのように、役割を超えて、自分が相手と共に学び変化することが求められるときもあります。







一様ではないさまざまな道筋があり「これが絶対」といえることなんてほとんどないでしょうが、相手が神さまの子どもであるということだけは絶対的信念として持っていても邪魔にならない、むしろ力になる信念ではないかな、と思います。







事務的なご連絡

パソコンが直りました!8月後半以降メールをくださった方、お返事が遅くなって申し訳ありませんでした。これからお返事書きますので、いましばらくお待ちください。
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ユーリ

Author:ユーリ
新宿区中落合でヒプノセラピーをしています。

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