身近な人のトラウマサポートをしている方へ

身近な人にトラウマ的な過去があったとします。







もちろん状況の改善は、まず一番最初にやらなければならない大事なことです。







ですけれど、それで終わるとは限りません。







ただより正常な良い環境を与えるだけではトラウマ的な感覚が癒されない場合もあります。







人間は過去の統計から未来を予測する存在です。







つまり心は過去を含んで成り立っています。







単に「忘れろ」といっても難しい場合もあります。







状況を変えることは、例えていえばテレビのチャンネルを変えるようなもの。状況が変わっても心が過去の痛みに影響を受けている状態は、今は楽しい番組を見ているけれど裏番組ではまだ怖い・悲しい番組が放映されている、というような状態です。







心のチャンネルはちょっとした刺激で瞬時に裏番組(過去)に戻ります。







ところで戦争ストレス反応の治療は戦地で治療する方が改善しやすい、という事実をご存知でしょうか。







心の由来」というサイトの「どこか遠くに逃げたら楽になるのかな・・・パートⅠ」というページから戦争ストレスについての記述を抜粋します。







(以下抜粋)







戦場で治療をしないと(安全な後方に搬送してから治療をすると)治療成績が下がることが経験的に知られていました。







レバノン紛争では、イスラエル軍は「戦闘ストレス反応」については、基本的に戦場で治療をする、という方針をとっていました。 日本の陸上自衛隊でいうと「師団収容所」にあたるレベル、つまり戦闘地域の前縁からほど近いところで、まさに戦場において治療をする、という方針です。 これは「迅速、近接、期待 immediacy, proximity, expectancy」の原則と呼ばれていました。 「戦闘ストレス反応」を起こしてしまったら、「戦場」において、迅速に、元の部隊と近接した場所で、元の部隊との絆を維持しながらすぐに原隊復帰することを期待して、治療を行うということです。 







治療の結果、ちゃんと治って戦闘に復帰できた人がどれだけいたかを比較してみると・・・







「迅速、近接、期待」の3原則を守って戦場で治療された人たちは60%程度の復帰率であったのに対して、比較的安全な後方に航空後送されてから治療された人たちは40%、さらに後方の安全な民間医療施設に航空後送されてから治療された人たちでは16%と極端に復帰率が落ちてしまっていました。








イスラエル軍の軍医たちがすごいのは、この後なんと20年間も追跡調査をしたことです。







その結果、レバノン紛争で「戦闘ストレス反応」を起こしてしまった兵士たちは、その1年後、2年後、3年後、そして20年後の心的外傷後ストレス障害PTSDの発症率は、どの時点を見てみても40~60%くらいもありました。






「迅速、近接、期待」の3原則が全て守られた場合のPTSD発症率は25%であったのに対して、2つだけ守られた場合は32%、1つだけ守られた場合は39%、そして1つも守られなかった場合は48%のPTSD発症率になっていたのです。







(ここまで抜粋)







なぜ戦場のストレスを戦場で治した方が治療効果があがるのかというと、過去になれば悪い記憶として定着して変えようがないから、と考えるのが自然でしょう。







戦場から平和な環境に連れていってもらっても、戦地=パニックに陥ったという記憶で完了しています。自然に良いイメージに変わるわけがありません。







犬に咬まれて以来犬に近づけない人が、犬と触れ合う体験なしに犬好きになることなどありえないのと同じです。







戦地を思い出す刺激を受けたときに、戦地での最終反応として自分が起こしたパニック状態に陥ります。







誰か大きな存在(上長の指示)によって平和な世界につれていってもらってなんとか命拾いしたという記憶ですから、パニックになったとき誰かの力にすがるしかない、という学習体験になっています。







「自分は状況をコントロールできず、パニックになった」という無力感、「自分以外の人(大きな存在)によって救出された」という無力感、ダブルの無力感を学習しています。そして自分をコントロール不能な状態に追いやった戦争という状況への恐怖心も学習します。さらに、「この世には自分にはコントロール不能な状況が存在するのだ」という学習、「その時自分はきっとまたコントロール不能になるだろう」という予想をするようになります。そして予想した反応を自己暗示によって引き起こします。






似た状況で困難を克服しなんらかの成功体験まで持っていく治療法が効果的なのは、「つづき」をやることになるからです。







「最終反応」だったパニック反応は「途中経過にすぎないもの」に変わります。







「一時はダメかと思ったけれど○○したら解決できた」という体験は、トラウマどころかエンパワメントになる学習体験です。







軽めの、似た困難な状況で、本人がなんらかの解決行動を取り、そのことによって状況が改善するという成功体験によって「こうすれば良い」という方法論の学習が身につきます。







また「もうダメだと思う状況を克服できた」という体験によって、「たとえ絶体絶命と思う状況でもなんらかの解決策があるものだ」という学習になります。そのため粘り強いタフな精神力が培われます。







これらは無力感とは真逆の反応ですが、どちらも単に経験による「学習」と「予想」によって起きるのです。







戦争ストレスのような大きな問題だけではなく、もっとライトな、私たちが普通に「トラウマなんだよね」と話すような体験においても同様のことがいえます。







そしてサポートについてもここから学べることがあります。







もし身近な人がトラウマ的体験を引きずっている場合、基本的にはよい環境を与えることがもちろん一番良いのですが、本人の力がある程度回復してからは、過去と似た困難な状況を絶対に絶対に避けなければならないかというと、必ずしもそうではないといえます。







もちろんわざと似たような状況を作るような無鉄砲な荒療治は避けるべきです。







トラウマ場面が再現された場合、通常、本人はまず過去の最終反応に逆戻りするので、自分はそれを上手に成功体験まで導けるほどの目効きか、腕効きかが問われます。







とはいえ作為的ではなくても似たような困難が再現する場合も多々あると思います。







というのは偶然に似たような出来事に遭遇するだけではなく、本人が過去のトラウマから過敏に似たようなことを見つけ出すようになっていたり、あるいはトラウマを投影して非現実的な偏った見方をすることなどによって、トラウマ場面と似た困難が再現される確率が一般の人より高くなるのです。







そのようなとき、身近にいる人間としてどうサポートすればよいのでしょうか。







一番大事なことは、本人がここで成功体験をできれば裏番組(過去)まで変わる可能性が高いということをわかっていること。逆に失敗すれば、失敗体験の二度塗りになり、小康状態を保っていた精神状態はさらに悪化するだろうとわかっておくこと。トラウマ的体験と似たような体験は、成功か失敗かを大きく分ける分水嶺になるということをわかっておくことです。







わかって見守っていることの方が、具体的に何をするかよりも大事です。







「今こそ過去の体験を克服するときだ」などとはまず言いません。なぜなら意識させればかえって固くなり緊張し、その結果、失敗の可能性が増すからです。







むしろそれと自覚せずに新たな決断をできた方が良いので、微細で柔軟なサポートをします。







本人が昔の最終反応のようなパニックに陥っている場合、状況によってはですが、自覚させる方が良い場合もあります。ただしそれは本人の意識の中で今と昔を切り離し、落ち着いて考えて新たな対処方法がとれるようになるためのサポートですので「今は前とは違う。同じことが起きているわけではない。昔の再現ではないのだ」と伝えます。






このような知識を実際に身近な人のサポートに使う方がいらしたら、知識を大上段にかまえたりせず、頭のすみにとどめて、生身の相手をちゃんとみてください。







どんな理論より現実の生身の相手が優先だということを忘れず、知識と現実が違うときは知識は脇において現実を見ること・感じることが大事です。







目の前の相手をちゃんと見て、よく聞き、感じ、相手の希望になるべく沿い、優しく見守りながら、ほんのスパイス程度のさじ加減で知識を使っていくという点を、くれぐれもよろしくお願いします。







後悔から逃避気味の人へ

渇望するように過去を求めても時間をまき戻すことはできませんね。







そんなときは、こう考えてみてはいかがでしょうか。







苦しみは浄化。







苦しみから逃げず、苦しみの形が浮き彫りになるくらい身をさらし、まっとうに苦しんでみようと。







酒や食べ物、惰眠やゲーム、雑事や忙しさに逃げまいと。







実際逃げようとしても逃げられるものではないし、逃げている方がかえって苦しみの時間がのびるもの。







いっそひとおもいに死にたいのは楽になりたい意味ですけれど、与えられた成長課題がまだ残っています。







自殺は終わってよいという許可ではありません。







終わってもいい許可があるならむこうから自然にくるでしょう。







この先どうしたらよいかはわからなくても、落ち着いて見てみれば、苦しみのかたちが見えてきます。







何が苦しいのか


ひるがえせば何を求めていたのかです。


何が自分を支えていたのか。


その中の何が?どの部分が?


これから自分はどのような問いをたて、何を大切にして生きるのか。


どのような行動でそれをあらわしていこうか。







そのように考えていけば必要なものと余分なものの差がはっきりとわかる人になるでしょう。







今までの自分より、受けている幸せを理解できる、幸せにふさわしい人になるでしょう。







時間をまき戻しただけでは未熟な自分に戻るだけ、そんな自分はお荷物で、変わった方がよいのです。







未練でうろうろしたところで戸口が閉まっているなら、降参して古巣に逃げ戻りたいと執着せず、ここから学び、つかみましょう。







いつか故郷に錦を飾るつもりでがんばりましょう。







『仏教は心の科学』より抜粋

最近読んだ本『仏教は心の科学』から印象深い言葉を抜粋しました。(一部、文章を閉じるために編纂してあります)







「梵天などとても高次元の生命がいるのですが、神々を拝むのではなくて、神々も乗り越えてしまうのです。「拝むな。乗り越えよ」ということです。「観音様、どうか助けてください」などという弱い心では人間はダメなのです。「よし、私は観音様を乗り越えかるのだ」というくらいの力強い生き方が必要なのです」







「山で遭難した人は、誰かが見つけてくれるまで頑張ります。吹雪の中でも頭をフル回転させて、険しい山道を降りてきたりもします。それなのに下山途中で誰かに出会ったら、その途端に力が抜けて、もう歩けないし、しゃべれない。それは人に出会った瞬間に、心が怠けてしまうからです」







「心というのは、ものすごく怠け者です。どうやって怠けようかと、常に必死です。「よく頑張った」というときも「怠けてしまうから、それでもなんとかやりました」ということであって「我慢」という言葉も「本当は我慢したくない。それでもなんとか我慢しました」ということでしょう。心を蹴飛ばして、叩き上げなければ幸福にはなれません」







「何かやりたくなっても一旦停止。「ちょっと待てよ」と考えてから、行動するようにします。交通安全のお守りなんていくらあっても事故は起こるのですが、一旦停止は人生最強のお守りになるのです。一旦停止さえすれば、極論を言えば、人をぶん殴ってもいいのです。ぶん殴りたくなっても「ちょっと待て」と考えて、それでも殴ったほうがよいと判断して殴るなら、ほとんどトラブルにはならないはずです」







「生命は自分の意志で行動しています。生命の意志は幸福になることです。それならば、意志によって行動する生命は幸福になれるはずですよね。煎餅を食べたいと思う人は、煎餅を口の中に入れます。けっして鼻の穴に入れようとはしません。つまり、不幸を感じているこの世の多数派の行動は、自分自身の幸福になりたいという目的にあっていないのです。行動は目的につながるものでなくてはならないということは当たり前の話なのに、知らず知らずのうちに、人は目的と反対の方向になる行動をするのです。煎餅を鼻の穴や耳の穴に入れるようなものです」







「幸福になりたいならば、次のように考えてください。自分の心は、生まれつき怠けというウイルスに侵されている。だから自分に精進という薬を飲ませてあげなければならないのだと。精進は、無計画に朝から晩まで頑張るということではありません。それは外に向けて、あるいは自分に対するごまかしでしかありません。結果がなければ、それは怠けです」






「日本人がオリンピックで金メダルを取ったら日本人みんなが喜びますよね。誰であろうが何か成功したら自分も喜べばよいのです」







「人間は、後悔さえやめれば幸福になるのです。「そう簡単には気楽になれない」と思うなら、逆に「何様のつもりですか?なんでもできると思っているのですか」と聞きたくなります。より良い結果を目指して努力するならそれで十分です」







「子どもに「みんながやっているのだから、あなたもやりなさい」これはよくありません。そうではなくて「みんなやっているのだから、あれはできますよ。簡単です。ちょろいものです。やりなさい」と言うのです。そうすると「あれは自分にもできることだ」という自信をつけることができます」







「精神が未熟な者の正直は問題の種です。病んだ心に正直にやりたい放題されては危なくてしょうがありません。「心に正直」ではなく「成長することに正直」になることです」







「苦しみを絶つには、神様を体験する必要も、阿弥陀様に出会う必要もありません。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、そしてこの身体自身、心自体が変化していくのだということ。流れては消えてゆくものだということ。「これ」と捕まえられるものは何もないのだということ。その事実を納得して理解し認める。それで問題は終わります」







「「あとでやります」という考え方は、結局「あとでもやらない」考え方です。それは心の思考パターンの一つですが「今すぐやらなくては」という気持ちでやらないと、なかなか結果が出てこないのです」







「仏教に記録されている超能力は解脱を目指して修行する過程で現れる現象です。修行者はどこまで実践が進んだのかをそれで理解しますが超能力を目指して修行することは厳しく批判するのです。超能力があっても一般の人に見せてはならないのです。無知な人々を驚かすのは品のない行為です。超能力を見て驚いても、ただマジシャンのマジックを見て驚くことと変わりはありません。それで良い人間になるわけでもないし人格向上もありません。お釈迦様は「ブッダの超能力は、説法できることと、人を導く能力だ」と説かれたのです」







「因縁とは、「万物の働きによって自分がいる。だから自分はけっして自立して存在するものではない。自分がいるという実感そのものさえ万物の中でお互いの働きによって現れてくる一時的なものだ」と知ることです」







「通常、私たちは怒ったら外に向かってぶつけていきます。自分を変えようとしないで誰々が悪いと自分に都合よくまわりを変化させようと頑張るのです。冬が寒いのが嫌だといって冬の気温をあげることはできない。できることといえば自分が厚い衣類を着込むか暖房を入れるか、それくらいです。海が嫌だといっても、海水をかきだして空っぽにすることはできません。船で渡ります。渡れる自分になろうとすることで、心の中の怒りはなくなるのです」







「怒りを治める方法がもう一つ、原因も結果も無常であると知ることです。悪口が原因で怒りが結果だとします。原因の音は1分か2分、せいぜいそのくらいの音で無常です」







「怒りは強い強い鎖のような束縛です。怒りや恨みを持ったら、その人に束縛されることになります。いつもその人が気になるのです。現にその人がそばにいなくてもエネルギーのレベルでは一緒にいることになります」







「どんな苦しみがあっても、自分にどんな欠点があっても、不満があっても、何もかも無常です」







「渇愛があるから苦があります。五官に依存して快楽を得ようと努力しても結局残るのは不満だけです。渇愛は苦の原因です。すべて無常だから不完全です。それに依存する私たちには必ず不満が生じます。なくすべきなのは苦ではなく渇愛、欲望であり煩悩です」







「ボールを持ち上げて手を離すと落ちて転がり最後には安定してとまります。原子一個みてもエネルギーが変化しています。お釈迦様は「すべて苦しい」というような何か暗い話をされたのではなくて、「存在は不安定な状態にある」という真実を語ったのです」







多摩川に生きる猫 二人展

イベントのお知らせです。

多摩川に生きる猫 二人展
~いのちの時間(とき)~



墨詩家 かとう しこう
写真  小西 修

「猫ちぐら」
〒166-0003
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Author:ユーリ
新宿区中落合でヒプノセラピーをしています。

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