カルマその7

カルマとは、あるパターンが繰り返されていることだ、と書きました。


前世や家系などの、私たち人間が通常把握できない範囲でもリフレインが起きていて、ジェノグラムでは家系のリフレインを可視化し、自覚できるようにすることで、仮説をたてたり方策を考える術としています。


リフレインを通じて、というより正確には、リフレインを自覚して比較検討することによって、人は、より自分らしいあり方を選択していくことができます。


場所や時代を変えて同じようなことが起きたら、少しずつ変化があります。同じような出来事でも、インドで起きるのと日本で起きるのとでは印象がちょっと違いますし、Aさんとの関係で起きたのかBさんとの関係で起きたのかによってもちょっと印象が異なります。


自分が体験したことなら主観的判断しかできなくても、他人に同じことが起きたのを見る側なら、客観的な感想を持てます。


何が繰り返されているのかというポイントがわかると、客観的な視点を自分に対しても向けられるようになりますし、ポイントを絞れます。


アルコール依存症などの自助グループの効果が高い理由のひとつは(参加するのとしないのと寿命が10年も違ってきます)、自分と似たような、そして少し違っている沢山のケース例を見ることができるからです。


心理学的夢分析の本を読んでいたら、一晩のうちに見る夢は、同じ内容のリフレインだと書いてありました。場面が変わるごとに一幕であり、一晩に何幕か夢を見ても、繰り返し同じことを言っているのだと書いてありました。主語•述語が変わり、する側になったり、される側になったり、それを見る観客になったりしながら夢が同じ構造を繰り返すのだそうです。繰り返す目的がなにかといえば、それは「自分自身を知るためなのだ」と夢分析家が書いていました。


まさにそれがカルマです。


カルマは、同じようなことが、主体•客体•観察者と立場を変え、時と場所を変え、繰り返されています。


そしてなぜそのようなことが起きているかといえば、自分を知り、選んでいくためだろうと思います。


どの立ち位置にたっても良いという世界を作り上げていくためだと思います。


良いと思える世界は、人によって違います。


キリストは「許されたければ許しなさい」「愛されたければ愛しなさい」と言ったのであって、「許されたくなくても許しなさい」「愛なんてまったく必要としない人も愛しなさい」とは言っていません


しかしながら「無自覚にであっても過ちを犯した人は罰せられるべきである」という世界を作った場合、その人の無自覚な過ち、場合によっては過去生や家系も含めた過ちまで罰せられることを、自分にたいしても許容することになるので、その結果、罪(積みあげたこと)を一切合切清算することになって大変な苦労をすることになり、かえって学びにくくなる、という理由で、宗教界•スピリチュアル界では、許すことを勧めます。


私もその方が手っ取り早いと思います。


しかし、絶対に絶対にそうでなければならないという宇宙のルールがあるわけではないと思います。


自分の延長線上にあるものを引き付けるので、延長線上にあるより強い霊体をひきつける可能性がありますが、おそらく自分の世界の法は、自分が決めてよいのです。


アラスカに住むインディアンには私たち日本人がいっしょくたに白と呼んでいる色について、微細な色分けによる100種類もの呼び名があるそうです。でもとても寒いです。


南国では、白の呼び名は多くないし、私の苦手な虫もいますが、暖かくて果物豊富です。



どちらが正しいというわけではなくて、要は好きか嫌いかなのです。



スパルタ式が好きなら好きで、学ぶ側•教える側のあり方にそれぞれ必要なあり方がでてくるでしょうし、許し許されて学ぶのが好きな場合も、それぞれ必要なあり方が生まれます。


どちらであってもよいのですが、する側•される側•見る側、どちらの立場になってもそれがよいと思うなら•••ということがあり、その点で人は成長を強いられています。


私たちは、若いときは権力者を否定し、年をとれば若い人を「今の若い世代は」と批判していて整合性がとれていません。


中高生のときも中高年になっても「誰もわかってくれない」と嘆いているのは、自分がいつのときも他者に理解がなかったと言っているようなものです。


整合性のなさが問題です。


南国でもアラスカでもいいから、どの立ち位置にたっても気に入るパーフェクト内面世界を創造していくことが必要だと感じます。

カルマその6

ジェノグラムをご存知でしょうか。


ジェノグラムでは、家系を3代さかのぼった家系図を作り、そこで起きてきた出来事などを書き込んでいきます。すると現在起きている問題と似たようなパターンやキーワードが繰り返されていることがわかりやすくなります。


ジェノグラムは心理学の一種です(のはずです)が、ここで繰り返しあらわれてくるパターンやキーワードは、宗教界やスピリチュアル界では、家系のカルマと呼ばれるものです。


たとえば万華鏡の中に黄色い色が入っていたら、何度ふってもどこかに黄色があらわれてきますね。


どこにどうあらわれるかは予想外だけど、どこかに何らかの形であらわれます。


それと同じように、正確な予想はできなくても、キーワードやパターンが、場を変え、時を変え、リフレインしていることを認識することができます。


関わった各メンバーはリフレインを意図したのではなく、その時々の気持ちによってしたことなのに、にもかかわらず、韻を踏むようにあるパターンを繰り返すわけです。


パターンをリフレインさせようとする力が働いていて、私たちは自覚せずにその力に影響を受けて、自然な気持ちで、リフレインに協力しているのでしょうか。


私たちはおそらく潜在的に複数の物語(ストーリー)を内にもって生まれてきています。


ポジティブ•ネガティブさまざまな物語があります。


中には、神様はいなかったと結論づけられるような絶望的な物語さえあります。



潜在意識が、パンドラの箱~
~開けた途端、さまざまな不幸が飛び出て、最後に希望が出てくる~
~といわれる所以でしょうか。



なぜそのようなことがおきるのかな、と思うに、


人間は創造(クリエイション)を行うという意味で、神に似せてつくられた存在と言われます。


私たちが、さまざまなときに思ったこと、言ったこと、決めたこと、行動したことが、創造行為になっていきます。


桃栗三年柿八年といいますが、植えてから実るためにはある程度の年数がかかります。


しかしいったん実ったら、その後、同じ手間や時間がかかるわけではありません。


一回作った世界をまた来世いちから作り直さなくてもすむようにしたのは、神様のいじわるではありません。


いったん木を育てたなら、次はもっと簡単にできるような再現性があることで、前回の続きができます。


自分がどういう世界を作りたいか、どうなりたいかをより明確にしていくことができます。


個々人、家系、人種や国が、脈々と作り続けてきたことが、長い年月を経て、見えない流れとして存在しているのではないでしょうか。


それが海流のような流れを作っていて、流れのあるところにオールのない小舟を置けば、何日後にはこのあたりにいるということが予想できるわけです。


生まれた日によって、人生で起きることがわかるような占いは、このように内在している物語を扱っているのではないかと思います。


ジェノグラムのパターンと、誕生日占いと、またビジョン心理学でいう物語•ドラマ、潜在意識にある物語は、ぜんぶカルマと同じことだろうと思います。


長い年月をかけて作ってきた物語なので、個人で変えるのは、努力と根性が時間が必要ですが、できないわけではありません。


藪や雑草を抜いて、耕して、新しい苗木を植えて、実るまで世話をする必要があります。


タイタニック号が氷山を避けるには、2km手前から舵をいっぱいに切り続ける必要があったと言われます。


継続的な強い熱意をもち、より良い結果をもたらす言動をし続け、向い風が追い風になるまで続けるならば、流れと真逆のことだって求めてよいのです。

カルマその5

加害者イメージと加害者本人は違う存在だということを前回書きました。


内面世界にいる他者のことを、その後、内在他者と名づけました。


内在他者は、学習された他者イメージで、他者の価値観の体系が思考形態として入ってしまったものです。


私が、この内在他者に気づいたのは、父との関係においてでした。


父は、子育てをしていた当時は、痛い目にあわせて覚えさせるという教育方針を持っていて、暴力と威嚇と論破することが教育手段でしたので、私の中の父イメージは、そのような性質を父以上に強く持ちました。


さまざまな場面での父の言動をみていれば、新たな状況に対しても、こういうときはこう言うだろうという父の反応の予想がつくようになります。


そしてそれに対する自分の反論を頭の中で構築するようになります。


その予想は、新たな状況に対する反応の予測という点で、自分の中で運用されている父の価値観です。


私が、トラウマ的になっている父との関係をなんとかしたくて、父の言うことについて分析するような文章を書きはじめたら、出るわ出るわ、それに対する反論も出るわ出るわ、で、A4用紙40枚の超大作になってしまいました。


それを父本人に渡したら「ほとんど当たっていたけど、違う部分もちょっとあった」と返事がきて、違う部分は誇張して世間に向けて書いた部分だったので、ほとんど当たっていたということになります。


しかし、A4用紙40枚にもなるような、父の言動とその動機について書けるということは、私自身の中に、父の思考体系が入っているということを意味しているのだ、ということに気づきました。


私を否定してやまないのは、父以上に、私にプリントされてしまった父の思考体系。


私が戦ってきたのは、父本人ではなく、私にプリントされた父の思考体系。


だから、家を出ても、その思考体系から解放されなかったのです。


そして、ほうぼうで権威者とうまくいかないパターンを繰り返したのです。


なんと自分の中にいたのです。


戦地の人が、日本に移住して、日本の法律を守らず、戦争行為を繰り返しているような状況が起きていたのでした。


そのような経緯で私は内在他者を変えていくための方法を作っていきました。

カルマその4

自分の心の世界に定着したものが、自分の一部として働く、ということは、怖い面もあります。


自分が何もしていなくても、加害者的な他人について繰り返し考えることで自分の中にコピーペーストされてしまうのです。


よく、家族や同僚がいかにひどい態度をとるかを第三者にわかりやすく説明しようとして、演技で、家族(同僚)の語り口調を真似することがありますね。


その演技がなんだか異様に迫真に満ちた演技になる場合がありますでしょう。


それは、話し手のなかに、問題家族(同僚)の性質がコピーペーストされてしまっていることを意味します。


加害者イメージは、たいていの場合、実際の加害者以上に悪質です。


なぜなら加害者イメージは、はたから「そう見えた」イメージであり、事実相手が「そうであった」ものではないから解釈に誤謬があり、悪い部分が強調され、そのような行動をする動機も悪質なものと想定されがちだからです。


そしてその加害者イメージは、その人が加害者本人から物理的に離れても、無限大に自分を否定し苦しめる思考としてつきまといます。


もはや加害者(他者として)のイメージではなく、加害者の論理が、自分の思考の一部として自動的に運用されていくため、他者によって生まれた思考だということがわからなくなっていきます。


これが、虐めの被害者や、虐待を受けた子どもが、大人になっても苦しみ続ける原因です。


自分を絶対に認めない否定的思考が自分の心に定着し、無限大に運用され、頭の中で自分を攻撃し続けるため、なんとかそれを打ち消そう頭の中で反論するものの、否定的的思考は強大で、次々と自分を打ち負かすような思考を繰り広げるため、頭の中が、永遠の闘争みたいになります。


心の中の仮想敵に対していつもシャドーボクシングしていると、外にいる、実在の、似た気質の他人に敏感に反応しやすくなりますし、神経質になって人の好意も誤解してしまったり、よい人間関係を持続する力に欠けがちで、対人関係に恵まれにくくなります。


また、自分が激しく怒ったときや、上下関係などで加害者と同じ立ち位置に立ったとき、思わず知らず、内在する加害者の攻撃性を相手に向け、加害者イメージそっくりの言動をしかねません。


おそらくまた、加害者イメージを内在させているために、自分がそれを内在させていない場合と比べると、病気や事故などにもあいやすくなると思います。


他者なのに、強く心に刻印するような出来事にあったせいで、自分の内面世界に加害者がコピーペーストされ、自分のカルマのように働いてしまうのですから、最悪です。


実物の加害者(他者)は、無知や弱さから自覚なく悪い結果を起こす場合が多く、どのような影響を人に与えたかもよくわかっていないことが多いですし、自分が被害者だと思っている場合も多くあります。また人間としてよい部分がまったくゼロというわけでもないでしょうし、年をとれば弱くなったり丸くなったりして変化する可能性もあります。


いっぽう加害者をコピーペーストした加害者イメージの方は、不変で、いつまでも強く、どこまでも否定的な存在です。


一時的な誤ちを犯した人間と、永遠に破壊の手をとめない加害者イメージは、どちらがより悪影響を与えるかといえば断絶後者です。


被害者が戦っている加害者は、被害者自身の心に残ってしまった加害者イメージであり、加害者的思考形態なのです。被害者も加害者も、被害者自身の心の中にいるのです。


夢の世界や、死んで戻る内面世界は、被害者の方がより地獄に近い世界になっているのです。


不公平なようですけれど、加害者本人は内面世界に迫害者を持っていない、したことの意味がわかっていない人であるのに対し、悪魔的存在を心に住まわせているのは被害者の方だからです。


加害者が更生することと、被害者が復讐心を手放し、よい内面世界を再構築することの難しさを比べたら、被害者の方がずっと難易度の高い学びをしています。


他人と思っている存在を含めて、内面世界全体が自分だという観点から考え、世界(内面世界•世界観)を平和にしなければならないのです。


それが達成できたあかつきには、強大な力をふるっていた加害者イメージは、宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』に登場する「坊」のように、また『ハウルの動く城』に登場する「荒地の魔女」のように、弱い存在(実物の他者)でしかなかったということがわかるときがきます。




カルマその3

私の体験を例にあげます。


スマトラ地震が起きたときに、私は自分も何か貢献したいと思いました。


でも私は何も持っていませんでした。


ある日、近所のセブンイレブンの募金箱に、一億円の募金が集まったことへのお礼が書かれていました。


小銭でも店舗数が多いと一億円になるんだな、と感心しました。


帰宅してテレビをつけたらサッカー試合の中継番組が放映されていました。


世界中の有名なサッカー選手がボランティア参加して、入場料を寄付するという趣旨のようでした。


サッカー選手がのびのびとプレイして、珍しい技がたくさん出て、見ていても面白く、選手にとっても心に残る試合なのではないかなと感じました。


いいなぁ、でも私にはたくさんの店舗を持っているわけでもなければ、有名人でもない。サッカーできない。


私にできることってあるのかな。


•••••••••••••••••••••••

•••••••••••••••••••••••!

ヒプノの誘導


というわけで、当時持っていた録音機材で、カセットとMDに、BGMなしの誘導を録音して、売り上げを災害支援をしている団体に寄付することを思いつきました。


早速録音をして、支援団体に許可を取って(というか、勝手にFAXで事情を書いて伝えて)ホームページに載せました。


その日の晩、印象的な夢を見ました。


私はお寺の事務所のようなところに小坊主さんのように座っていました。すると何か見えない力にひっぱられて、座ったまま廊下を、何回か曲がりながらすべっていき、どこかにドンとつきあたりました。見上げると、座禅を組んでいる大きな仏様の足元にいました。私は感涙にむせんで、目が覚めました。


その日以来、眠る前に考えていたことの答えが夢の中でわかったり、起きがけにひらめいたりすることが急に増えました。


それでわかったのです。


よく、夢や寝起きに答えが来ると言われるけれども、それはあくまで、与え•与えられる構造が自分の中にあれば、という条件つきだったのだ、と。


その構造がなければ、夢は答えを運んでこれないのだと。


与える自分がいれば、与えられる自分が生まれます。知りたい人に教える内面構造があって初めて、答えを受け取れる自分になるのです。


カルマの法則の一部について学ぶ体験でした。

カルマその2

夢にまで出てくるようになったら自分の一部として定着した、ということは


(上級者レベルになったら違うけれど初学者は)一瞬なにかを思ったり行動しても、夢に出るほどじゃなく、習慣化していない一回だけのことなら、あまり神経質にならなくてよいということです。


むしろ正しくあろうとしすぎて感情を抑圧して夢にまで見てしまうくらいだったら、本末転倒です。


よく「コンビニの募金箱に寄付なんかしても徳を積んだことにはならない」と言われますが、それも夢にまで出てくるような思いかどうか、という点でとらえるとわかりやすいと思います。


前に何かの記事で読んだエピソードですが、震災直後スーパーに行列ができていたとき、子どもがお菓子を持って並んでいて、だんだんレジに近づいてきました。レジには被災地のための募金箱が置いてありました。子どもは、自分の順番になる直前に、急に列から離れてお菓子を戻しに行き、レジに置いてある募金箱にお金を入れて帰りました。スーパーやコンビニの募金箱がダメということではありません。単なる形の問題ではないということです。


「ヒットラーが、皆が思うほどネガティブカルマをうけなかった」と言われるのも、夢という観点から考えるとわかりやすいです。悪しかれと思ってしたことではないであろうから、です。夢は自分の動機もかなり大きく反映されます。


一方で、夢は純粋に個人的世界ではなく、他者の意識も反映されているので(と私は思うので)、完全に自分勝手な世界ではなく、他者の意識の影響も受けていると思われます。


つまり夢の世界は、自分の動機と、それによって影響を与えた他者の意識が反映される世界といえます。

カルマその1

今回は、カルマについて書いてみますね。


独断と偏見で、ものすごくわかりやすく単純にいうと、カルマというのは、(寝てるときにみる)夢の世界で起きる出来事の構造、みたいなことです。(ん?わかりにくいか)


夢の世界って、自分も他人も、自分の心の中にいるという点で、ぜんぶ自分の一部です。


夢の中の自他というのは、肉体でいうと胃と肝臓みたいな感じ。胃も肝臓も自分の一部ですよね?それぞれ個別の働きをする内臓だけど、自分というひとつの存在の構成要素のひとつです。


それが夢の中の個人です。夢の中では自他の関係は、自分の一部と一部の関係性をあらわしています。


だから、どちらかが悪者のようにみえても、実はどちらも自分ですから、起きていることが悪い場合は関係性が悪い、ということになります。胃と肝臓が協力しあっていない、というような話です。


自他がない、というのが、まずポイントのひとつです。


これが、人にしたことが自分に返ってくるというカルマの法則のもとになっています。


睡眠中の夢というと、よく見る人もいれば、ほとんど見ないという人もいますけれど、夢を見ない方は、自分が思い浮かべる世界、と解釈してください。


目を閉じて誰かを思い浮かべたとしたら、その人は、自分の心の中に存在する人ですね。夢に出てくる他人も、思い浮かべる他人も、自分の一部であることに変わりありません。


私の場合、思い浮かべる人が夢の中にまで出てくるようになったら、自分の一部として定着した、と解釈しています。



図と地

先日のマインドフルネスのつづきみたいな話ですけれどね•••••


自分ってなにかと考えたとき


ひとつひとつの呼吸は自分の内側から生まれて、自分と一体化して働き、自分に寄与し、生まれては消えてゆくものですが、ひとつひとつの呼吸とともに自分は死にませんよね。


体の細胞も、自分の内側から生まれ、自分と一体化して働き、自分に寄与し、終わるものですが、ひとつの細胞とともに自分は死にませんね。


それは樹木と葉っぱの関係と似ています。新緑も樹木の一部であり、樹木と一体化して働き、樹木に寄与するものだけれど、枯葉とともに樹木は死にません。


自分の中に、スパンの短いものと、スパンの長いものがあるわけですね。


考えも、気分も一時的なものです。ある考え方をするようになる前から自分はいたし、考え方が変わっても死にません。感情もしかりです。社会的立場も同様です。


一貫して存在する自分というものがいるなら、胎児のころから今まで一貫して続いているもの、起きているときも熟睡しているときも続いているものです。


生まれては消えていく泡のように、呼吸が、細胞が、考えが、感情が、生まれては消えていく場が自分だということになります。


画用紙に書いた絵を「図」と呼び、画用紙の白紙部分を「地」と呼びますが、一貫して存在する自分は「地」の部分にあるわけですよね。


こういう考えをしてみるとよいのは、特に、行き詰まりを感じるような状況にいるときですね。


自分を「地」としてみれば、現状を落ちついてみることができます。


「自分は落伍者だ」とか、「もうダメ」とかの考えも、一体化しないで、その考えが存在することを認める者というポジションに自分を置くことで、やわらぎます。


不安な予想は過去の経験値から来るもので、過去に由来した幻想の一種にすぎません。


自分の考えと距離を置くために、ロングスパンで続いている「地」の自分にフォーカスしてみることは役立ちます。


同様に、どうにもならない厭世観や鬱的気分も、それ自体を変えようとせずに、立ち位置を変えることで、無理なく、安らぎのある心境に立ち戻りやすくなるという点で、優れた方法だと思います。










戸隠

また長野に行ってきました。


上田にある別所温泉。別府と有馬と別所は古くからある日本の3温泉なのだそうです。


竜の口から温泉が出ています。硫黄の味がします。神社の手水もお湯でした。




温泉宿からの雪景色。



その後戸隠に移動しました。

いつも泊まる戸隠の宿、楡の家。ご主人の田原さんは、私が運営するチベット里親会の仲間で、飲み仲間です。




景色がきれいでした。





プロフィール

ユーリ

Author:ユーリ
新宿区中落合でヒプノセラピーをしています。

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