イメージ

こころの中は、自他の区別がないといわれますね。






夢の中にでてくる他人は、「その人のような自分自身」をあらわしています。「その人のような性質」が自分の一部として存在しています。体がいくつもの臓器、たくさんの細胞でなりたっているように、心の中にもいろいろな部分があるのでしょう。






「その人のような自分」と、今の自分との関係性が、夢の中であらわれます。肝臓と心臓、とか、右手と左手の関係、のようなものです。関係がよければ、肝臓も心臓もなかよし、右手と左手が協力しあう、というようなものです。関係がわるければ、肝臓が心臓を攻撃したり、右手と左手があらそったりしてるようなものです。肝臓が心臓に勝ったら、肝臓もなりたちません。どっちが勝っても体全体としてはパーフェクトな機能を果たしていないことになります。





夢でなく、思い出として心の中にいる他人はどうでしょうか。目の前にみているろうそくの炎を、目を閉じてイメージすれば、その炎はこころにあります。目の前にいる人を、目を閉じてイメージすれば、やはりこころにいます。思い出すときも、夢と同じ、イメージです。イメージは心を構成する一部です。夢とおなじように、「その人のような部分」が自分の中にうまれます。





スピリチュアルな世界では「もともとそういう部分が自分にあったからその人と出会った」と言われますね。そのとおりかもしれません。でもここで言っているのは、「たとえ自分にそういう部分がなかったとしても、出会ってこころに残ったことによって、自分自身の一部になる」ということです。外国からきた人が日本に定住して、外国文化が広まるようなものでしょうか。





じゃあ、いい人に会った方がいいのかな。たしかにそのとおりかもしれません。でもちがうかもしれません。わたしたちは24時間365日、いろいろな事実や出来事に出会います。同じとき、同じ場所にいても、印象に残ることは人それぞれ、同じ本を読んでも、覚えている文章は人それぞれです。たくさんの中から何をきりとって、どうみるのかは、自分の目を通しています。





「その人ような部分」というのは言動とか性質です。実際その人がどうだったかということより、自分が相手の中にどんな特徴を見たか、という点が一番おおきいです。わが身をふりかえってみると、過去に印象に残った人と似たようなことをしている自分を発見します。好きな人も、きらった人も、ミニサイズでいつのまにか自分の一部になってます。現実の相手ほど強烈じゃないのですが、ある時ある場面で、でます。





それに気づいて、人を理解できます。「ああ、こんな気持ちだったんだ」とわかったり、許したり、別の解釈をできるようになったり・・・。自分の中の「その人のような部分」と「自分」とが理解しあって、なごんで、自然消滅することもあります。理解したうえで意識して変えることもあります。自分の罪を許せない場合でも、自分が自分にしていたことなのだから、ただやめればいいだけです。肝臓と心臓の関係がよくなれば健康になるように、こころの中でバランスがとれて、こころの力が出せるようになります。





いっぽうで、こころの中の他人は、単なる自分の一部というだけでもありません。現実の相手の状態も反映します。イメージを通じて人の状態がわかるときもあります。「その人のような自分」を変えると、相手に影響をあたえたりします。相手には相手の意志がありますから、相手が変わりやすくなる道筋をつくるぐらいの影響かもしれません。日本から外国に行った人が、外国で定住して日本文化を広めるようなものでしょうか。





このように、こころの中は自他の区別がない、面白い世界です。こころに描いたキリストも仏様も太陽も地球も家族も友だちも、ぜ~んぶ自分自身の一部。と同時に、イメージを通じて、現実の存在やエネルギー体と双方向に影響しあえるんですね。





イメージは、ふたつの円が重なり合う共通項、自分と他者との扉のようです。






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新宿区中落合でヒプノセラピーをしています。

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