絶対的な確信

たとえばマッサージの腕に自信をもっている人が、「筋肉をほぐそう!」と意気込んで介入するより、同じ技術をもっていて「体の声に耳をすまそう、感じよう」とする方が、やってもらう側はきっと気持ちよいですよね。







たとえば、楽しませるために考えたメニューをこなすデートより、一応メニューはあっても、相手の希望や状況を優先して柔軟に変更するぐらいの方が、楽しいデートになりますよね。







教育方法の信念があっても、その通りにならないとき、子どもから学ぼうという視点に立てる方が、効果的な介入ができるのでしょうね。







どんなに正しい方法論も洗練された技術も、その運用にあたっては柔軟であるべきで、確信しすぎることは誤りなのだろうと思います。







「こうしたらこうなるはず」、「相手はこう感じるべき」と決めつけることは、現実をみないことです。理屈より現実を下位においています。







相手を感じて、相手から学ぼうとするときは、現実を上位においています。技術・方法論は、より精妙な完成度に至る途上としてとらえられています。








「もう完璧」「こうしさえすればOK」という確信がないと心もとないですが、絶対的に信じていいことはひとつだけあると思うのです。







それは相手が神さまの子どもだということです。







自分がなんとかしようとしている相手は問題ではなく光です。







今は見えにくくなっていたとしても、神聖な自然や宇宙の力と知恵、神さまの意志が、相手の中にあります。







自分が相手にすることはキリストやお釈迦さまなどの聖人にすることです。







この人を通じて、神さまはこの世界に何かよいものをあらわそうとしていて、そのための何らかの道筋があるという仮定にたってみます。







ないものを作り出すことが求められているわけではありません。方法論がわからないだけです。







カール・ロジャースがカウンセリングを生み出したときのように、役割を超えて、自分が相手と共に学び変化することが求められるときもあります。







一様ではないさまざまな道筋があり「これが絶対」といえることなんてほとんどないでしょうが、相手が神さまの子どもであるということだけは絶対的信念として持っていても邪魔にならない、むしろ力になる信念ではないかな、と思います。







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新宿区中落合でヒプノセラピーをしています。

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