気づきの体験その①

最近また更新がとどこおっていてごめんなさい。すみません。へへへ、くるしまぎれに昔の日記をひっぱりだしてみたりして。学生のときの日記の一部を読んでください。私は当時とても孤独感・厭世感でいっぱいの暗い暗い学生でしたが、とある5月の晴れた日に新緑を見てふと気づきがあって、それ以来少しだけ悩みがはれました。そのときの話です。人からみるとそれでも十分暗く理屈っぽすぎるかと思われますが、自分としてはこのときから明るくなったのです。このとき内面を通じてなにかに教わったと思っていて気に入っていますので読んでください。(少しわかりやすく書きかえてあります)。




私はものすごく厭世的だった。私は自分の存在価値を疑い、人類の存在価値を疑って、自己中心的な性質を嘆いてきた。ほかの命を犠牲にしなければ(食べなければ)生きていけないという原則が弱者を犠牲にするこの世界の象徴のように思えて、自己中心的な自分の本能を脱しようと断食をして一週間で挫折したりした。そのうえこれから先も社会の通俗的な価値観のもと失敗しないで生きていかなければならないという焦燥感も感じていた。だけど今は不思議なことに心が世界にフィットしている。講義の空き時間に公園に行って新緑を見ていたら心に浮かんだことがあったんだ。


「人間は愚かで救いがたい性質をもっている。自滅する可能性だってあるほど自己中心的で弱肉強食の生存競争をしている。でも、植物だってただ植物同士の生存競争にあけくれているのかもしれないのに人に喜びを与えている。与えようとしなくても与えているものがあり、木々のまわりにみんなが集まってくる。私たちから見れば確かに存在する「色」も「匂い」も、目や鼻を持たない木々にはわからない。木は自分が美しいことを知らないのだろうな。花がかぐわしいことも知らないのだろう。自分が誰かを幸せにする存在だということも、どんなに豊かなものを持っているかも想像もできないのかもしれない。豊かさを与えている本人に見えない、知らない、想像もできない良いことが存在しるということだ。もしかしたら私も、人間も同じかもしれない。人間が、自分には想像もつかないよい性質をもっていて、それが宇宙の働きを調和させているとしたら・・・。こういう私の考えは空想でしかないかもしれない。でも本当である可能性もおなじようにある。どちらかはわからないのだ。いいきれるのは今私が感じとれる範囲で存在していないということだけだ。そして今見えないことがあるということも確かなのだ。私からみれば今の世の中があるべき姿には見えないけれど、草木が世界に恵みを与え調和しているように、すべては調和しているかもしれない。個々の存在は現象としてわけられているだけで、大きな観点からみれば海の波がしらのようにひとつの命なのかもしれない。私の嫌う弱肉強食的生存競争さえ命のハーモニーかもしれず、私が否定してきたことは悪いものではなく必要なことかもしれない。判断は、今私から見えている事実の総計から導き出した結論にすぎない。目がないから見えない美しさ、鼻がないから感じとれないかぐわしさがあるのなら、結論づけられることなんてなにもない。どんな判断も「今の私にはこう見える」「今の私の世界はこうだ」といえるにすぎない。私はこれから、知っていること、想像しえることをすべてだと思うことはやめよう。知らないこと、想像しえないことがあるということを知っていよう。少なくとも人間が生きていることは宇宙の調和の一部なのだということはいえる気がする。今はあるがままに身を任せていこうと思えた」




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