心の世界について、思うことを書いていきます。 (実際には日常的なことばかり書いてます)
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スピリチュアルな知識や感覚があったりすると、プライベートな場面で、なんとなく空気が暗い場所や波動の低さに敏感になって、避けがちになってしまうことがあります。
あるときたまたま、とあるお店に入って、なんとなく暗い雰囲気を感じました。 「用事をすませたらさっさと帰ろう」と思ったのですけれど、思いのほか待ち時間が長く、去ることもできませんでした。 待ちながら、自分の意識を観察して、考えました。 「自分はもちろん聖者などじゃないけど、本などで読む聖者は、出会う人出会う人を癒していってる。それにくらべ自分はネガティブなエネルギーからチマチマ身を守ろうとしている。こういう自分の態度はいったいなんだろう。すべての人は神さまの子どもで、雰囲気が暗いならなおさらしてあげられることがあるといえる。どんな用事で来たとしても、自分がほんとうにスピリチュアルな道を歩むことを志しているのなら、出会う人すべての幸せを祈ろう」 そんなふうに思いました。 本人の許可なしヒーリングすることは、人間の本質的な権利である自由意志を冒すことになると習ったので、勝手にヒーリングはできません。でも祈ることはよいのだとも習いました。 また別のセミナーで光の柱の立て方も習ったので、とりあえずその場所に光の柱ををたてることにしました。 光の柱の立て方は、ただ光の柱をつくって、柱を通じて上から光が降りてくる意図とイメージをもつことです。 念入りに柱をつくっても、まだ待ち時間があったので、従業員の方おひとりおひとりの幸せと、その方を通じてすばらしい仕事がなされることをお祈りをしていました。 そうしているうちに、なんだか急に空気が輝いたような印象を受けました。 で、またその後、なぜか従業員の人たちが妙に親切にしてくれました。 それ以前と意外なほど差があったので、なぜだろうと思いました。 いくつかの理由を考えてみました。 すごく普通に考えると、「できるだけ早くここを去りたい」と思っているときの私の表情と、相手の幸せを祈っているときの私の表情は、人から見るとぜんぜん違って親しげなのかもしれなくて、それで人の私にたいする反応もおのずとやわらいで、親切にされたのかもしれません。 また、これはすこしスピリチュアル寄りな考えですが、私は、私自身の中に残っている暗さを店に投影して、そのために暗く見えていただけで、本当はもともと店は明るくて、従業員の方は親切だったのかもしれません。祈ることでレンズにある曇りがとれて、本来の明るさを見れたのかもしれません。 ハイアーセルフが、私の初めての試みに「それいいね〜」とGOサインをだすために、差がはっきりわかるインパクトを感じさせたのかもしれません。 エネルギーワークも効果的だったのかもしれません。 ほんとうのところどうなのかはよくわかりませんが、どこでも、出会った方々のお祈りをするというのはとってもとっても気持ちのよいことだな、と思いました。 それ以降はいつもそうするようにしています。 町を歩けば、気の毒になったり、戸惑うような光景に出会うことはあるものですから、そういうときは、スピリチュアルなことを多少なりとも知っている自分たちのお仕事の時間というふうにしたら、批判的傍観者でいるよりずっと気分がよいものだな、と思いました。 |
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たとえばマッサージの腕に自信をもっている人が、「筋肉をほぐそう!」と意気込んで介入するより、同じ技術をもっていて「体の声に耳をすまそう、感じよう」とする方が、やってもらう側はきっと気持ちよいですよね。
たとえば、楽しませるために考えたメニューをこなすデートより、一応メニューはあっても、相手の希望や状況を優先して柔軟に変更するぐらいの方が、楽しいデートになりますよね。 教育方法の信念があっても、その通りにならないとき、子どもから学ぼうという視点に立てる方が、効果的な介入ができるのでしょうね。 どんなに正しい方法論も洗練された技術も、その運用にあたっては柔軟であるべきで、確信しすぎることは誤りなのだろうと思います。 「こうしたらこうなるはず」、「相手はこう感じるべき」と決めつけることは、現実をみないことです。理屈より現実を下位においています。 相手を感じて、相手から学ぼうとするときは、現実を上位においています。技術・方法論は、より精妙な完成度に至る途上としてとらえられています。 「もう完璧」「こうしさえすればOK」という確信がないと心もとないですが、絶対的に信じていいことはひとつだけあると思うのです。 それは相手が神さまの子どもだということです。 自分がなんとかしようとしている相手は問題ではなく光です。 今は見えにくくなっていたとしても、神聖な自然や宇宙の力と知恵、神さまの意志が、相手の中にあります。 自分が相手にすることはキリストやお釈迦さまなどの聖人にすることです。 この人を通じて、神さまはこの世界に何かよいものをあらわそうとしていて、そのための何らかの道筋があるという仮定にたってみます。 ないものを作り出すことが求められているわけではありません。方法論がわからないだけです。 カール・ロジャースがカウンセリングを生み出したときのように、役割を超えて、自分が相手と共に学び変化することが求められるときもあります。 一様ではないさまざまな道筋があり「これが絶対」といえることなんてほとんどないでしょうが、相手が神さまの子どもであるということだけは絶対的信念として持っていても邪魔にならない、むしろ力になる信念ではないかな、と思います。 |
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パソコンが直りました!8月後半以降メールをくださった方、お返事が遅くなって申し訳ありませんでした。これからお返事書きますので、いましばらくお待ちください。
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10日ほど前、長年続いている私の実家の問題について、先生にお話しする機会がありました。
「これ以上あなたにできることはないから、この問題を神さまにゆだねてお祈りをしなさい」とアドバイスをいただき、そうすることにしました。 その数日後、今から一週間ほど前ですが、夢をみました。 大木が倒れて道をふさいでいて、私は枝を乗り越えながら進んでいます。「こういう困難をひとつひとつ乗り越えることは、浄化などの深い意味があって、順調なのだ」と思う夢でした。ふと向こうを見やると母がいて、足元がおぼつかない状態でヨロヨロ歩き、コテンと転んだりしていました。 朝起きて、「はてさて、どういう意味だったのかな。最近パソコンが壊れたり、色々な用事でドタバタしたり、確かにいろいろ困難を感じている。そういうことに肯定的な意味があるということかな」と思いました。 私個人にとっての意味も確かにあったようです。そして同時に夢は、家族のことも示唆していたようです。 昨日、久しぶりに母から電話がかかってきました。 「元気?」と聞いたら、「うん元気!・・・ちがうちがう元気じゃないのよ〜。最近少しよくなったけれど神経痛になって足のつけねが痛くて歩けなかったの。「ユーリさん助けて」と祈っていたのよ」と言われました。「祈るなら神さまでしょう〜。私には電話してほしいんですけど〜」と思いつつ、夢の話をしたら、知っていたのに来なかったことを軽く恨まれてしまいました。 そこで今日、お見舞いがてらヒーリングに出かけました。 よくよく話を聞いてみると、実家ではすばらしい変化が起きていました。 今まで母が頑張りすぎていたために構造が変わる機会がなかった家庭内の歪みが、一時的にしろ体調を崩したことで大きく変化していました。 父が初めて台所に立ち家族の食事を作るようになったために、何十年も交流が途絶えていた父と私の兄弟が直接話すようになっていました。 それは私がずっとずっとずっとずっと望んでいたことでした。 明るく話している声を聞いて、とても嬉しかったです。 自己決定や自由意志は、人間の尊い権利です。ゆだねるお祈りをすることによって、自我の望みを超えた大きなバランスが起きることを積極的に許可することになるのだろうと思います。願望実現じゃないけれど、願望を超えたバランスの実現という意味では、ゆだねるお祈りもひとつのクリエイションなのだろうと思います。 大いなるバランスに感謝します。 |
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パソコンが壊れてしまいました。。メールをくださった方、お返事ができなくて申し訳ありません。復旧までにすこし時間がかかりそうなので、メールは携帯電話の方にお願いします。携帯電話のアドレスはこちらです。10月からは落合南長崎の自宅での通常営業に戻ります。
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