無条件の愛を求める気持ち

無条件の愛を求める気持ちは、人間関係上の問題の原因になることがあります。

無条件の愛を求める気持ちとここで書いているのは、相手に聖母•聖人のような愛を期待し、損得勘定で生きる普通の人間を侮蔑するようなジャッジの仕方です。

そのような求め方をすると、相手の態度次第で聖人か俗物かといった判断をしがちになり、崇拝するか軽蔑するかという極端な反応になりがちです。同じ相手に対しても日によって極端に態度が変わることになってしまう場合があります。

無条件の愛を求める気持ちは、実は、赤ちゃんのときに叶えてもらっていたような究極の満足感をもう一度感じたいとか、赤ちゃんのころに叶えてもらえなかった恨みをはらしたいというような気持ちが、無意識的な基盤になっているのではないかと思います。

赤ちゃんは求めます。いつでも一緒にいると約束してほしい、いつでも私を好きでいてほしい、いつでも笑顔で優しくしてほしい、私がいて幸せだと言ってほしい、私のつらい感情もすべて受けとめてほしい、私が困ったときには問題解決してほしい、私の代わりに私を世話してるほしい、私のために生きていてほしいと、究極の犠牲を、しかも喜んでしてほしいと求めます。

赤ちゃんだった頃に叶えてもらっていたこと、赤ちゃんだった頃に叶えてもらえなかったことを大人になってから人に求めると、問題のある破壊的な行動になりかねません。

願いが叶えられないと裏切られた気分になり、どうせ自分なんか必要とされていないと嘆き、なげやりになり、周りが損得勘定で生きている無価値な大衆だと否定します。

引きこもりの子が母親に、DVの夫が妻に、介抱してもらっている酔っ払いが周囲の人に、求めていることの本質は無条件の愛なのかもしれません。人格障害などもこのような心境と無縁ではないように思います。大人の場合、赤ちゃんと違って体が大きく口達者で要求も高いから手に負えない場合もあります。

そのようなワガママは身近な人にしか通じませんので、身内と他人で圧の差が生じ、外では過度に気を遣って萎縮したり敵対したり心を開かないという形で自己防衛する場合もあります。

私たちは皆赤ちゃんだった時代があるので、多かれ少なかれそのような気質をどこかしらに持っていて、程度の差があるだけなのもしれません。

自己中心性の克服は大人になるための成長課題のひとつです。

ではどういう方向を目指すべきかというと、ヒナが育ち卵を必要としなくなるように、外の世界とうちの世界の圧を同等にしていくことです。

心許せる相手に対しても社会的な接し方をストレスなくできるようになり、圧の差を減らすこと。

今日から始められるわかりやすい課題としては、家などで身近な人に丁寧に接すること、恩に着せずにしてあげられるレベルを高めること、してくれなかったら不服に思うことを少なくしていくこと、感情をぶつけるのをやめて穏やかに伝えられるようになること、相手の立場や気持ちを大事にすることです。

それができれば外でも自然体でいやすくなります。







冬支度

そろそろ冬支度の季節になりました。

先日、田舎暮らしの友人宅に、薪準備の手伝いに行きました。

埼玉県の材木屋で、トラック2台分1400キロの廃材をタダでもらって、うち一台を私が運転し、スリリングな峠越えの下道ルートで長野県に運びました。



今どきの薪割りは、斧ではなく、丸ノコとテーブルが一体化したテーブルソーなる文明の利器で切ります。



同行した82才の父が、がんばってカットしてくれて、1400キロの廃材が1日半ですべて薪になりました。



つね日頃運動不足の私は1日半でもヨレヨレになりましたが、あれこれ考えずただひたすら薪割りに専念することが意外とよい気分転換になりました。

今は筋肉痛も癒え、気分爽快に、相談業務をしています。


錬金術

もうすでにご存知の方も多いかもしれないのですが、錬金術って、現実に存在しているみたいですね。

1996年に日本の女性が特許をとっています。

http://www.patentjp.com/08/U/U100079/DA10001.html

金や白金が作れちゃうんですね。

錬金術ができたというのは哲学的なインパクトがあります。

また、アフリカでは、空気の薄い、崩落の危険がある狭い縦穴に子どもが潜って金を探しているので、こういう発明によって実質的な変化も起きると思います。

大量に生産できたら希少価値がなくなるから、昔の金本位制経済は成立しなくなりますね。

それとこの特許には、放射性物質について、半減期の異なる別の放射性物質に変えてしまうことで、無害化できると書いてあります。

1900年代にこんなことわかってるんだったらそうすればいいのになぁ。どうして使わないのかな。

つれづれ

ネットで買えない本で読みたい本があって、初めて国会図書館に行きました。





建物の写真撮ったりなんかして。おのぼりさん。


本をコピーしたかったのですが、著作権の関係で、本の半分までしかコピーできないそうです。


本を傷めないためにセルフコピー禁止で、コピーをしてもらいます。郵送もできます。値ははるけど、楽チン。


二度に分けたらコピーできるのかなぁ。今度聞いてみよう。

ヒーリング

私がヒプノセラピーを始めたのは、神経症や精神病に効果がある可能性がある、という点に惹かれたためでした。


エネルギー・ヒーリングなど証明できないことについて、私は基本的に不可知論的立場から「証明できない以上、否定もしないし、あまり深く考えない」という態度で関わってきました(そうはいってもヒプノセラピーをしているとその種のことは沢山出てきますので、多いに関わってはきました)。


ヒプノセッションで出てくる過去世についても「本当に過去世が存在するのですか」と聞かれれば、「例え話としてでも自己理解の一助として役立てばよいと思います」と答えてきました。


でもあるとき、神経症や精神病にもヒーリングが有効な可能性があるという話を聞き、ヒーリングを習いました。


せっかく習ったので、ヒプノセッションにいらした神経症や精神病のお客様に無料でヒーリングをつけくわえてみたところ、幻聴が減ったり、過食嘔吐の回数が減ったりしたので驚きました。


エネルギーやヒーリングも馬鹿にできない、と思いました。


ただ、ヒーリングだけではなくヒプノセラピーも行いましたし、お客様が他のセラピーも併用している可能性もあるので、厳密には、何が功を奏したかわからないわけです。


前に、認知症のケアホームで介護のバイトをしていたとき、ある利用者さんがひどく具合を悪くして、数日後に救急搬送されたことがありました。


救急搬送される前日、私が当直勤務で、利用者さんが夜通し「助けてください」と何度も呼ぶので、気の毒でいたたまれなくなってヒーリングをしました。


ヒーリングの講習会では「相手の了承が必要」と習いましたが、病状が悪化している認知症の高齢者にヒーリングの概念を理解してもらうのはほぼ不可能と思われたので、「これがこの人にとって良いことなら受け取ってもらえる」という限定をつけてヒーリングを行いました。


ヒーリングをしているとき、色などを思い浮かべるために目を半開きにしたり閉じたりして、イメージの世界に集中するときがあるのですが、そのイメージの中に、ヒーリングの聖者たちがバンバーンと浮かんできて、それが私にとっては予想外だったので「もしかしたら良かったってことかな」と思いました。


でもその翌日救急搬送されたこと、さらには余命一週間と宣告されたことを後日出勤のときに聞き、ヒーリングと肉体的治癒は別物だったのだなと思いました。


利用者さんに個人的愛情を感じていたケアホームスタッフたちはかわるがわる、余命宣告された利用者さんのお見舞いに行っていたのですが、持っていったジュースをあっという間に飲んでしまうほど元気で、かえって悲し気なスタッフに「どうしたの?元気ないの?」と聞いたりするので、疑問を感じたスタッフが看護婦さんに「本当に余命一週間なのですか」と尋ねたところ「先生はそう言っているのですけどねぇ」と言われたことなど、話に聞きました。


それからしばらくして利用者さんは退院してケアホームに戻ってきて、私が辞めるまで元気でした。


その方は感染症で危篤になったので、救急搬送先の抗生物質投与などの治療が功を奏した場合、危機を脱することはあり得ることでした。だから、この場合も、厳密にはヒーリングのせいかどうかは不明です。ちなみに私がこっそりヒーリングをしたことは関係者には誰にも伝えていません。


ヒーリングに効果があるかどうかについて結論はでません。


でもまぁわからなくてもヒーリングは害にならないし、私の場合はヒプノセラピーにつけたりたまたまご縁でするだけで、お金とっているわけでもないし、何がきっかけで良くなったって構わないじゃないか、というスタンスで、たまにヒプノセラピーと併用してきました。


ただそのような思い方にも欠点があることに最近気づいたのです。


それは、ヒーリングが功を奏した可能性のあるケースがいくつあっても、自分のヒーリングへの信頼はまるっきりついてこないことです。


別の要因でよくなったのかもしれないと思っているため、新たなケースに対して、自分が積極的にヒーリングをしようという気にならず、申し出る気になりません。


むしろ自分なんかまるっきり蚊帳の外において、私が知っている別の良いヒーラーを紹介したくなります。


先ほどのケアホームでも、そばに私しかいないからしただけであって、ヒーラーがいたらその人にお願いしたにきまっています。


「たまたまなんじゃない?」「併用した治療がよかったんじゃない?」「もともと治る生命力があったんじゃない?」等の考えをともなう経験がいくら積み重なっても、いつまでたってもちっとも自信なんかつかないし、いざという時には自分以外のヒーラーにお願いしたくなる人って、もしかしたら私だけじゃなく意外と多いかもしれませんね。


ところがこの間、お米をといでいたときに、ふと、料理を美味しくするためのヒーリングも習ったことを思い出して、米をとぎながらヒーリングをしました。


そのあと炊いたご飯を食べたら、すごく美味しくてビックリしました。


色もいつもより白くピカピカしているように見えました。


ヒーリング講習会で料理のヒーリング方法を教わったときは、「神経症や精神病に有効な方法を知りたいのであって、料理を美味しくする話なんてどうでもいい」と思っていたのですが、同じ米びつに入っている米がヒーリングによって変化することを体感することは、自分のヒーリングにも少しは効果があるんだと思えるようになるためには役立つのですね。


ヒーリングってやっぱ大切かも、と改めて思いました。


でも、そのあとまた疑り深く考えてみると、ヒーリングをするために何度もといだせいで、いつもよりヌカがきれいに洗い流された可能性があると思えてきました。


同じ回数といだお米でなければ厳密にはヒーリングのせいとはいいきれません。


どこまでも疑り深い自分です。


『水からの伝言』に出ているご飯実験みたいなやり方で、完全に同じ条件に置いたご飯で、ヒーリングをしたご飯とヒーリングしないご飯の差を記録していくような方法が、私には向いているのかもしれません。


疑り深いうえに面倒臭がり屋な自分は、ホント始末に負えません。



追記
書いたあとなんかふとわかったような気がしたのですが、ヒーリングは媒体になる人を選ばないのですね。ヒーリングという独立した意識があって、そっちで判断してくれるんじゃないかと思いました。人間は単なるアースで、誰でもできるときはできるし、できないときは誰もできない、といった類のものなのかもしれないと思いました。であれば自信を持つとか持たないとかはどうでもよくて、やった上で結果はお任せするということですね。自信なんかなくてもヒーリングという独立主体を信頼していればいいということ。たぶんこれが今の私の結論です。

つれづれ

昨夜は、里親会の仲間たちと新宿のタイレストランで食事をしました。

久しぶりに顔をみて、いろんな話を聞けて、楽しかったです。

帰り道、歌舞伎町の方にゴジラがいると聞いて歩いていると


ん?あ、あれは





ヒョー!ゴジラだ~!

みえません?真ん中のとこ。小っちゃく写ってるの。

私のアイフォンはこれで限界。

仲間がアップ画像を送ってくれました。





こわっ





ヴィパッサナー瞑想

ヴィパッサナー瞑想の歩行瞑想や、マインドフルネスは、クラニオ的な意識で自分を観察していくということなのだな、と歩行瞑想をしていて体感的に思いました。

専門家からいわせるとほんの一面的な理解かもしれませんが、そのようにしてみると、体じゅうの細胞に、意識のもつ愛が行き渡るような感じがしました。

よく「私は私を愛します」なんてクサイ台詞をスピ系のアファメーションで言わされてゲゲゲッと思っていましたが、何があってもなくても否定したり変えようとしないという点で肯定的な態度をもって、自分の中のあらゆる微細な反応を観察していくことが、自分自身を愛するということなのかもしれないと思いました。

そうすることで得られる効果がいくつかあるような気がしました。

ひとつは、細胞が意識のエネルギーを受けとって、元気になること。

またひとつは、意識が体を受け入れることによって、体も意識を受け入れるようになり、それ以前よりは意識の統制を体が受け入れるようになること。

また、体を客観的に観察することによって、体ではない自分を確立しやすくなること。思考を観察することによって思考ではない自分を確立しやすくなること。

また、種に必要な養分を与えると育ち花開き実るように、自分が潜在的に持っている可能性を育てる環境が整うここと。

それらの効果は目的として志向すると瞑想の本質からズレるのですが、目的志向ではなく、山の稜線を正確になぞる空のように、意識が自分をなぞり、瞬間瞬間を自分と共にいることによって享受できる副産物としてはあるように思います。



援農してきました

長野県長野市の戸隠に暮らす知人のところへ、リンゴ摘果作業をしに行ってきました。



リンゴの実が一箇所にいっぱいなっているとどれも育たないので、小さいのをとります。



とった実は、リンゴのシードルなどの材料になります。

植物園から戸隠山をみました。



9月16日から1泊か2泊で、今度は薪割りのお手伝いに行く予定です。

もしご一緒していただける方がいらしたら、ご連絡ください。





鬼の住処

血も涙もない鬼のような行為というものは存在しますが、血も涙もない鬼のような人間というものは存在しません。

そのような人非人は、私たちの想像のなかにのみ存在しています。

ユダヤ人を虐殺したドイツ人は、ユダヤ人がすごく悪い存在だと思って虐殺行為を行いました。

ルワンダの虐殺でも、ツチ族がひどいことを企んでいると恐れたフツ族の人たちが、ツチ族を虐殺しました。

どちらも、相手を人非人だと思った人が、その鬼のようなイメージの相手に対抗するにふさわしいと思われる防衛手段をとり、それが虐殺になったのです。

自分たちは善良な普通の人間であり被害者だと思っていた人たちが行ったことなのです。

血も涙もない鬼のような相手に対してふさわしい対抗手段をとることが、はたからみると、加害者と被害者が入れ替わり、ドイツ人やフツ族が鬼のような人に、ユダヤ人やツチ族が気の毒な被害者に見えるのです。

血も涙もない他人がこの世にいると思っている人たちこそが、反撃として、血も涙もない行動を起こすのです。

幽霊を見て、奥さんを殺してしまった番長皿屋敷みたいな話です。

誤った解釈に基づいて反撃することが、先制攻撃になることは、小さなことまで含めれば、とても頻繁に起きています。

問題解決より先にすること

海で泳いでいる途中に引き潮に遭遇した場合の対処法について、昔何かの記事で読んだことがあります。


岸を見ながら岸と並行に泳いでいき、どこかで岸に向かう流れを見つけてから岸に向かって泳ぐ方が助かる確率が高くなると書いてありました。


引き潮に逆らって岸に向かって全力で泳ぐと、いっこうに岸に近づかないばかりか体力消耗するばかりで、そのせいで力尽きてしまうことが多いのだそうです。


また山で遭難した場合は、まず落ち着くこと、もと来た道を戻ること、もと来た道がわからないなら尾根に向かって登り、全貌を見渡して降りる方向を確認してから下ること、その方が助かる確率が高くなるのだそうです。


水が海につながっているからなどと考えて沢沿いに下山しようとすると、迷いこんでしまうことが多いそうです。


これらは人間が、解決方法がわからない状況に陥ったときに限りある気力体力で何をすべきかということを示唆しているように思います。


命に関わるようなことだけではなく、一般社会で遭遇するようなある種の難問についても同様のことがいえる場合があります。


むやみやたらに解決を急がないことが大事だということです。


まず落ち着くこと、問題がある程度長期化しても大丈夫な気力体力を温存すること、問題を複雑化させる可能性のある動きを控え、全貌が見渡せる視野をもって、有効な可能性のある手に絞って行動を起こすこと、などです。




あること

私たちは進歩や向上のために、解決すべき問題を意識します。


問題というのは、不足していること・不十分なこと・ダメな部分・改善が必要なこと、などです。これらをひとくくりに「ない」ことと呼んでみます。


「ない」ことにフォーカスする視点は、進歩や向上のために大切な役割を果たす側面もあるのですけれど、否定的視点であるため、幸せを感じにくくなります。


問題にフォーカスしているときは、難しい顔をしがちです。


いっぽう幸せを感じ、心満たされるときは「ある」ことにフォーカスしているときです。


大切な人に出会えたこと、やりたいことができたこと、今こうして存在していること。


私たちは、なかったものを得られた直後は「ある」ことに感謝して幸せを感じますが、しばらくするとまた欠けているものに目が向きがちです。


「ない」ことにフォーカスすることは、進歩や向上のための問題解決的思考ですが、無意識的•習慣的になると、いつも問題ばかりに目がいって、問題に囲まれているような被害者意識に陥って、悩みすぎ・嘆きすぎ・心配しすぎ・周囲の人をけなしすぎ・否定やダメ出ししすぎ、に陥ります。


現代日本など比較的豊かな国に暮らしている一般的な人々にとって、幸せか否かは、現実的な環境の問題というよりも、「ある」ことにフォーカスしているか「ない」ことにフォーカスしているかという思考の習慣の問題である場合が多く、「あとひとつ問題解決すれば幸せになる」というような種類のことではない可能性があります。


むしろ問題解決思考のはずが、、恵まれているものが見えず、足りない点ばかり見てしまう思考の偏りになって自分も周囲も落ち着かなくさせ余分な問題を生む原因になるという本末転倒な場合すらあります。


「ある」ことにフォーカスするほうが問題解決に役立つ場合もあります。


「ある」ことにフォーカスすると、自分や人の良い面がみえ、胸が広がるような楽な感覚になり、楽しく、一歩進む力がわき、ストレス耐性があがります。居心地がよく、落ち着き、今ある恩恵を享受でき、感謝し、与え手を励まし、恩恵を享受しやすくなります。


最終的に人の一生は「なかった」点ではなく「あった」点で評価するものなので、より鳥瞰図的・ハイアーセルフ的視点ともいえます。


認めたり感謝しているときは自分の波動が高くなるので、祈りも通じやすくなるかもしれません。


とはいえ「ない」ことにフォーカスする意識がダメというわけではなくて、TPOの問題です。


仕事などで完璧さを追求するためには役立つ意識です。技術向上のためには今あることをただ喜んでいるのではなく、問題の発見・解決を繰り返し、過去のやり方を否定してより洗練された方法を生み出す必要があります。


専門的職業の人・社会的に洗練されている人が、親としては意外と子どもにトラウマを与えるような関わり方をしてしまう理由のひとつもここにあるのだろうと思います。


社会や職業で役立つ「ない」こと探しの意識を、プライベートに持ち越してしまうからです。


無自覚・習慣的に問題解決的思考方法で四六時中過ごしたら、うまくいかないことばかり考えて、どうすればいいかばかり考えて、イライラしたり焦ったり、楽しむ余裕がありません。いつも難しい顔をして、褒め育てどころか足りない部分ばかり指摘して、思わず知らず子どもの自信を失わせたりしてしまいます。


「ない」ことにフォーカスする意識と「ある」ことにフォーカスする意識はどちらも役にたつ思考方法ですが、場面や目的に応じて切り替え、使い分けるような自己コントロール力を身につけることが、社会人としても家庭人としても幸せを享受しながら進歩・向上できるコツかもしれないと思います。

哲学堂公園

しばらくぶりに、近所の哲学堂公園に行ってみたら、一部リニューアルしていました。


滝にうたれるお地蔵さん、かわいい。



いろいろな人の彫像があります。手前はキリストだそうです。



ガンジー、リアル。



彫像の作者、ワグナー•ナンドールのメッセージを転記します。

「私は長年研究していた分析的美術の研究から幸せへの道を見出しました。その理論を彫刻の形で表現したのがこの「哲学の庭」です。この道は人類共通の進歩を示し、考える道を開いています。問題がたやすく解決されるとは思いません。しかし私はこの方向に向かって進むべきだと確信するのです」



気づきの体験①-4

私は若いころからいじめや差別や自然破壊などの社会問題について嘆いていて、変えていきたいなぁと思っていました。

学生のころのある日「あ!きっと弱肉強食がいけないのだ。それは食べるからなのだ」と思いつき、無鉄砲に断食して、7日目にラーメン食べる夢をみて挫折するようなアホでした。

復食のやり方も知らず、いきなりボンカレー食べて吐いたりするアホでした。(悪い例ですので決して真似しないでください)

今思うとマンガですが、思いはそれなりに切実でした。

大きくなっても社会問題を解決する側であろうとしてきました。

でも社会問題は簡単には変わりませんから、地道な活動をちまちまやりつつ酒を飲めば社会問題を論じて咆哮飛ばしていました。

私はかなり度数の高いお酒をストレートで飲んでいました。

自然や命を守らなければならないと涙ながらに力説しつつ、自分の中にもある自然や命を粗末に扱う矛盾。

命に耳を傾け、命とともに生きたいと言いつつ、ガブ飲みして、体の中では自然破壊が起きている。

酒販業界は人間の依存性を利用して安定した業績をあげているかもしれないけれど、リカーショップで酒を買って飲んでいるのは他ならぬ自分。

外側の社会問題にとりくむことも大事だけれども、自分の中でも同様のリフレインが存在しているのです。

自分に関わるリフレインを変えていくことができなければ、外側が変わるわけがありません。

もちろん自分の中のリフレインを変えれば必ずすぐさま外側の状況が変わるということではありませんが、少なくとも自分が変えたいと思っているならば、自分の中で起きている同じ構造のリフレインを変えていくことでアファメーションを純化したいと思いました。

そして、買い置きしていたウイスキー3本を、流しに捨てました。

今は体に負担にならない程度の飲み方をしています。

こんなダメダメな私の話でお目汚しして申し訳ありませんが、ここから気づいたことを共有したかったのです。

未解決の問題がまだ残っている状況があっても、問題が存在しているからいけないというより、こんな世の中生きるに値しないというより、その問題に対して「自分は」どう関わるのかという点が最も重要なことであり、また外側だけではなく自分の世界にも同様の問題構造がリフレインしている場合、そのリフレインを変えることでアファメーションをより確かなものにしていけるのではないか、ということを共有したくて書きました。

おわり

気づきの体験①-3

過去の出来事のリフレインのなかで、私が別の選択をして、トラウマが癒されたということから学べるもうひとつのことは、

私が許せなかったのはいじめっ子ではなく、いじめっ子と出会ったときの自分自身の反応だったということです。

自分で納得のいく対応を自分がとれなかったことで、その状況を作ったいじめっこを恨んでいたということです。

もっとも本質的な問題は外側の状況ではなく、状況に対する自分自身の反応。

だからやり直せたタイミングで和解の夢をみたのです。

外側の問題は避けようのないことがあります。

クラスにいじめっこがいるかどうかは、自分(少なくとも小我の自分)には選びようがありません。

どんな時代に生まれるか、どんな国に生まれるか、どんなことに巻き込まれるかも、選べません。

でも、あとあとまで後悔するとしたら、その状況の中で自分が何をしたか、あるいはしなかったか、という点です。

うまくいったかどうかという結果以上に、自分が価値あると思うあり方を選択し、その時の自分の全能力で、その時の自分にできうることを全身全霊でやったのか、という点が、最終的に心に残ることです。その点で一点の曇りもなくYESと答えられるなら、力及ばなくても、致仕方なかったと受け入れやすいはずです。

人間は、単なる状況判断をする傍観者ではなく、ただ本能で逃げ惑う動物でもなく、今いる状況のなかで自分の行動を通して自分の意志を表明していく存在です。

社会を変えられなくても、状況を変えられなくても、自分の関わり方だけは、最後の瞬間まで変えられます。

自分が状況とどう向き合うかという点については、自分の手中にあり、誰も自由を侵すことはできない種類のものなのです。

気づきの体験①-2

未解決の問題があると、似たようなことが繰り返されることが多く、私は成人してからも、自分からみると昔のいじめに少し似た出来事に出会いました。

そのなかで私は子どものころとは違う対応をとることができました。

簡単に、かつ具体的にいうと、包丁をつきつけられるような場面があって、それでも言うことは聞けないと静かに伝えたこと。

もうひとつが、今考えるとたぶんチーマーと呼ばれるような若い男の子たちに集団リンチされていた男性をみかけて、間に入って男の子たちに殴らないでくださいと頼み、通行人が集まってきて、男の子たちが暴力をふるうのをやめたこと。

それは、私がいじめを受けた体験と、他の子を助けてあげられなかった体験を、やりなおすような出来事でした。(あぶないので真似はお勧めしません)

これがリフレインの中でやり直しをした体験だと私は頭ではわかっていなかったのですが、潜在意識はわかっていたようです。

和解の夢をみました。

子どものころに私をいじめた首謀者の男の子が夢のなかに出てきました。

夢の中で、私は大人で、男の子は当時の子どものままの姿だったので、怖くありませんでした。

大人の目からみると、しもぶくれでほっぺが赤くて、かわいいなぁ、と思いました。

あんなに怖かったけど、こんな小さかったんだ。

こんな年でお母さんがいなかったならさぞかし寂しかっただろうなぁ、と思いました。

すると男の子が「あそぼ」と言いました。

私も和解するつもりはあったのですが、いじめられた当時ひとことも文句をいえなかったので、ひとことぐらい文句を言っておこうと思って「前にいじめたでしょ」と言いました。

するとその子はちょっとはずかしそうにうつむいて「うん」とうなづきました。

その姿がかわいくて私は「もういいや」と思い、その子を抱っこしました。

その瞬間に目覚めました。

以来、過去の体験はトラウマではなくなりました。

親から聞いたエピソードと同程度の、感情をともなわない単なる記録のような記憶になりました。

ここから学べるひとつの法則は、リフレインが起きること、そのなかで前と違う選択をすることで過去の記憶が癒されるということです。

ここから学べるもうひとつのことを次の記事で書きます。

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ユーリ

Author:ユーリ
新宿区中落合でヒプノセラピーをしています。

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